第2話
翌週の火曜日、また彼女が現れた。
午後五時を少し回った頃。
雨は止んでいたが、空はまだ重たく、図書館の中もどこか湿っていた。
窓の外では、濡れたアスファルトがまだ光を吸い込んでいて、通りを行き交う人の足音が、いつもよりも静かに響いていた。
彼女は、前と同じように静かに入ってきて、まっすぐ文芸書の棚へ向かった。
制服の裾が少し濡れていた。
髪は乾いていたから、途中でどこかに寄ったのかもしれない。
あるいは、雨が止んだのを見計らって、傘を差さずに歩いてきたのかもしれない。
どちらにせよ、その濡れた裾が、彼女の存在をこの空間に確かに刻んでいた。
僕はカウンターの奥から、彼女の背中を見ていた。
何を読んでいるのかは見えなかった。
けれど、立ち方が妙に落ち着いていて、まるでこの場所にずっと前から馴染んでいたようだった。
「こんにちは」
声をかけられて、少し驚いた。
彼女が、カウンターの前に立っていた。
「これ、借りたいんですけど」
手には六冊の文庫本。
どれも芥川龍之介の作品。
「……はい、どうぞ」
貸出処理をしながら、名前を確認する。
佐伯美優
やはり、前と同じ。けれど、やはり、それ以上は考えないようにした。
「芥川、好きなんですか?」
自然に出た問いだった。
彼女は少しだけ間を置いて、答えた。
「……母が、好きだったみたいで。家に何冊かあって」
母。
その言葉に、胸の奥がざわついた。
だが、表情には出さなかった。
出してはいけない気がした。
「そうですか」
それ以上、言葉は続かなかった。
続けてはいけない気がした。
彼女も、それを望んでいないように見えた。
「ありがとうございます。また来ます」
彼女はそう言って、軽く頭を下げた。
その仕草は、どこか儀式のように整っていて、けれど、ほんのわずかに揺れていた。
それが、雨上がりの風のせいなのか、彼女自身の内側の揺れなのか、判断がつかなかった。
彼女が出ていったあと、僕はしばらくカウンターから動けなかった。
手の中に残った貸出カードの感触が、やけに生々しかった。
閉館後、またラジオをつけた。
今日はうまくチューニングが合わず、雑音ばかりが流れた。
それでも、しばらく耳を澄ませていた。
何かを聞こうとしていたのか、何も聞きたくなかったのか。
記憶は、音から始まる。
匂いよりも、映像よりも、音が一番早く過去を呼び起こす。
遥の声も、最初は音だった。
言葉ではなく、声の輪郭だけが、耳の奥に残っていた。
そして今、あの少女の声が、それと重なり始めている。
それが、偶然なのか、錯覚なのか。
まだ、わからない。
わかりたくもなかった。
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