第2話

[保護者]


児童養護施設は、静かな場所だった。

正確には、静かというより、音そのものが吸い取られているような場所だった。


廊下を歩く足音は小さくて、話し声も、どこか遠慮がちだった。

泣いている子はいたけれど、泣き叫ぶ声は、なかった。


僕はそこで暮らしていた。


母が死んでから、しばらく経っていた。

何日か、何週間か、正確には覚えていない。聞かれたら答えられたと思うけれど、

自分から数えたことはなかった。

部屋には、ベッドと机が一つずつあった。名前を書いた紙が、引き出しに貼ってあった。

西嶋 伊織。名前は、そこにあった。


ある日の午後、職員の人が僕を呼びに来た。

「伊織くん。面会の人が来てるよ」

誰だろう、と思った。

でも、思い当たる人はいなかった。


応接室には、スーツを着た女性が一人座っていた。姿勢はよかったが、

警察の人たちが持っていたような、あの固さは感じなかった。

顔を見た瞬間、思い出した。


――あの時の人だ。


警察署の、白い部屋。

机の向こうに座っていた、大人の一人。

僕が名前を答えたとき、何も言わずに、ただ聞いていた人。


女性は、立ち上がらなかった。僕の目を見て、静かに言った。

「久しぶりね、伊織くん」

声は、低くも高くもなかった。優しい、というより、落ち着いていた。

「……あの時の」

そう言いかけて、言葉が止まった。

女性は、少しだけ笑った。


「鷹宮 静(たかみや・しずか)。お母さん――西嶋直(にしじま・なお)さんの、弁護士をしていた者よ」


その名前を聞いて、胸の奥が少しだけ重くなった。

母の名前が、他人の口から出てくることに、まだ慣れていなかった。

「今日はね、あなたに話があって来たの」

そう言って、鷹宮静は続けた。

「直さんから、生前に頼まれていたことがあるの」

その言葉で、分かった。

この人は、母を知っている。

ちゃんと、母と話していた人だ。

母は、仕事の話を家であまりしなかった。

でも、離婚のときだけは、何度か名前を出していた。

――静さんは、ちゃんとしてる人だから。


その静さんが、目の前にいた。

「もし、私に何かあったら。

息子を、よろしくお願いしますって」

淡々とした口調だった。感情を乗せていないからこそ、重かった。


「私は、その約束を守りたいと思っている」


一瞬、何を言われているのか分からなかった。


「……それって」


「あなたの、保護者になる、ということ」


頭が、うまく動かなかった。

母は死んだ。

それはもう、終わったことだと思っていた。

なのに、その母が、未来の話をしていたみたいで。


「驚くよね」

鷹宮静は、そう言ってから続けた。

「無理に、とは言わないわ。

でも、あなたのお母さんは、

あなたが一人にならないように、準備していた」

母は、知っていたのかもしれない。

そう思わないと、この人がここにいる理由を、

僕はうまく飲み込めなかった。

そう思った瞬間、胸の奥が、きしんだ。


「……どうして」


気づいたら、口を開いていた。


「どうして、そこまで」


鷹宮静は、少し考えてから答えた。


「直さんはね、あなたを、ちゃんと一人の人間として考えていた」

その言い方が、妙に優しかった。


「守ることと、縛ることは違うって言ってたわ」


母らしい言葉だと思った。


「私は、あなたのお母さんにはなれない」


そう前置きしてから、


「でも、あなたを大切にすることはできる」


その言葉は、嘘じゃない気がした。


「返事は、今じゃなくていい」


鷹宮静は、そう言って立ち上がった。

「考えて。あなたのペースで」

その背中を見て、思った。

この人は、母の代わりじゃない。

でも、母が選んだ人だ。


――だから、信じていいのかもしれない。


その日から、僕の生活は、少しずつ変わり始めた。


施設を出て、鷹宮静の家で暮らすことになった。


僕は彼女のことを、

「しずさん」と呼んだ。


母とは、呼べなかった。でも、他人とも、思えなかった。


戸籍の名前は、変わった。


西嶋伊織は、書類の上から消えたのだった。

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天地の仮名 斉藤廉 @SilentLie

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