天地の仮名

斉藤廉

第1話

[お前、誰だ]


僕が初めて嘘をついたのは、小学二年生の冬だった。

その嘘は、今の僕を作った。

その日のことを、夢として見ることはない。

代わりに、音だけが残っている。

食器が割れる音。知らない靴底が床を擦る音。

それから、母の声が聞こえなくなった瞬間。

あの夜、家では僕と母が向かい合って夕飯を食べていた。

テレビはついていたけれど、内容は覚えていない。


母は仕事の話を少しだけして、僕は学校であったことを話した。

いつも通りだった。何も特別じゃなかった。


インターホンが鳴ったのは、その直後だ。宅配だと思った。

母もそう思ったはずだ。だから、ドアを開けた。

次に聞こえたのは、男の怒鳴り声だった。僕は椅子から立ち上がれなかった。


体が固まって、呼吸の仕方がわからなくなった。


何かが倒れる音がして、母の名前を呼ぼうとして、声が出なかった。

「動くな」

低い声だった。

感情がない、ただの命令。

目の前には男が一人、ナイフを持って立っていた。

遠くを見ると、母が倒れていた。

床が赤く濡れていた。

まるで時間が止まったみたいだった。

男が、僕を見た。

「お前、誰だ」

その質問は、確認じゃなかった。選別だった。

逃げ道を探すみたいに、僕は母を見た。

母の目は、開いていた。僕を見ていた。

何かを言おうとしていたのかもしれない。

でも、声は出なかった。

男は一歩近づく。ナイフの先が、少し揺れた。

「この女と、どういう関係だ」

「名前は?」

心臓の音がうるさくて、考えがまとまらなかった。

でも、不思議と一つだけ、はっきりしていた。ここで間違えたら、僕は死ぬ。

母は、首を振らなかった。

止めなかった。

肯定もしなかった。

ただ、目を閉じた。

それが、答えだったのかどうかはわからない。

でも、僕は理解した。

(この人は母さんを刺した。

理由はどうでもいい。

ここで“息子”だと言えば、次は僕だ。)

首を横に振った。

「……関係、ありません」

口を開いたら、喉が痛んだ。

「石崎って言います」

声は、思ったより普通だった。まるで当たり前のように。

「僕の母が出張で、家に誰もいないから、この人の家に少しの時間置かせてもらえって」

男は一瞬だけ僕を見て、それから舌打ちをした。

「そうか」

それだけ言って、男は背を向けた。

玄関のドアが閉まる音がして、足音が遠ざかっていった。

世界が、戻ってきた。

僕はリビングを出て母のそばに膝をついた。名前を呼んだ。何度も呼んだ。

返事はなかった。

その後のことは、断片的にしか覚えていない。

警察が来て、救急車が来て、知らない大人たちがたくさんいた。

事情聴取を受けて、同じ質問を何度もされた。

白い部屋だった。

机の向こうに、大人が二人座っていた。

一人は警察官で、もう一人はスーツを着た人だった。


「落ち着いて。ゆっくりでいいからね」


そう言われても、どこを落ち着けばいいのかわからなかった。

手が冷たくて、指先の感覚がなかった。


同じ質問を、何度もされた。

言葉が少しずつ違うだけで、答えは変わらない。

「名前を教えて」

そう言われて、少しだけ間が空いた。


「西嶋伊織(にしじま・いおり)です」

「何を聞かれた?」

「……関係を、聞かれました」


「どう答えた?」


一瞬だけ、喉が詰まった。

でも、首を振るわけにはいかなかった。


「……関係ないって」


ペンが紙の上を走る音がした。

その音を聞いたとき、

あの嘘が、ここに残ってしまったと思った。


あの時ついた嘘は、誰にも訂正されなかった。

正しかったのだと、みんなが言った。

「生きるためには仕方がなかった」と。


それから、僕は生きている。


名前も、顔も、変えていない。

学校にも行ったし、友達もできた。

笑うことも、怒ることも、普通にできる。


ただ、自己紹介だけが苦手だった。


名前を名乗るたびに、

あの夜の質問が、頭の奥で繰り返される。


――お前、誰だ。


僕は今でも、その答えを持っていない。

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