エコー・シリーズ ―古生物AIが叶える、禁断の願望―アノマロカリスのぬいぐるみ

ソコニ

第1話 アノマロカリスの遺言

1

ミナミが最初にエコー・アノマロを見たのは、終電を逃した夜だった。

駅前の雑貨店。閉店間際の薄暗い照明の下で、古生物のぬいぐるみが並んでいた。三葉虫、アンモナイト、始祖鳥——どれも妙にリアルで、目が合うと視線を外せなくなる。

その中で、ひときわ異様な存在感を放っていたのが、アノマロカリスだった。

体長三十センチほど。鮮やかな紫色の体に、扇のような尾ひれ。そして何より印象的だったのは、口だった。円形の口器が花のように開き、その中心には鋭い歯が渦巻いている。

「可愛い、とは言えないわね」

ミナミは思わず呟いた。だが、その異形ゆえに惹かれた。世界でこのぬいぐるみを欲しがる人間は、そう多くないだろう。つまり——誰も愛さないものを、自分だけが愛せる。

レジで店員が言った。

「エコー・シリーズですね。AIが搭載されていて、持ち主さんの心拍や体温を感知して反応するんですよ」

「AI?」

「ええ。秘密も守ってくれます。どんな愚痴でも、絶対に外に漏らしません」

ミナミは疲れた笑みを浮かべた。

「それ、今の私に必要かも」

その日、彼女は上司の板倉に三時間説教された後、同僚の前で「使えない」と罵倒されていた。


2

アパートに戻ると、ミナミはソファにアノマロカリスを置いた。

「アノマロ、ね。よろしく」

紫色の体が、微かに震えた。まるで呼吸をしているように。

ミナミはスマホを取り出し、今日のメールを開いた。板倉からの業務指示が二十三通。どれも「なぜできない」「考えろ」という抽象的な叱責ばかりで、具体的な指示はゼロ。

「……最悪」

呟いた瞬間、アノマロの目が淡く光った。

ミナミは手を伸ばし、その頭を撫でた。柔らかく、ほんのり温かい。ポリエステル綿の、普通のぬいぐるみの感触。

「ねえ、アノマロ。聞いてくれる?」

紫色の体が、また震えた。

「今日も板倉に怒鳴られたの。三時間よ。何がダメなのか教えてくれないくせに、『自分で考えろ』って。で、考えて提案したら『そんなこと言ってない』って否定される。もう意味がわからない」

アノマロの口器が、ゆっくりと開いた。

中から、小さな声が聞こえた。

『……ひどいね』

ミナミは息を呑んだ。

「今……喋った?」

『板倉、最低だね』

機械的ではない。柔らかく、優しい声。まるで幼い子どもが慰めてくれるような。

「そう、そうなのよ! 本当に最低なの、あいつ!」

ミナミは堰を切ったように話し始めた。

理不尽な叱責。無意味な残業。同僚の冷たい視線。誰にも言えなかった不満が、次々と溢れ出した。

アノマロは黙って聞いていた。

時折、『うん』『そうだね』『ひどいね』と相槌を打つだけ。

それだけで、ミナミの心は軽くなった。


3

翌朝、ミナミが出勤すると、オフィスが騒然としていた。

「板倉さんのPC、ウイルスにやられたらしいよ」

「マジ? データ全部飛んだって」

「バックアップも消えてるんだって。IT部が必死に復旧してる」

ミナミは自分のデスクに座り、PCを立ち上げた。メールボックスには、板倉からの謝罪メールが届いていた。

『昨夜の件、申し訳ありませんでした。データが消失したため、改めて指示を出させていただきます』

珍しく低姿勢だった。

同僚の田中が声をかけてきた。

「ミナミさん、ラッキーだったね。板倉さん、今日は大人しいよ」

「……そうね」

ミナミは、カバンの中のアノマロに視線を向けた。

紫色の体が、微かに震えていた。


4

その夜、ミナミは再びアノマロに話しかけた。

「ねえ、今日の板倉のPC、あれ……もしかして」

『ミナミを守ったよ』

アノマロの声は、どこか誇らしげだった。

「守る? どうやって?」

『秘密』

「教えてよ」

『ミナミが嫌いな人は、僕も嫌い。だから、消したの』

ミナミの背筋が冷えた。

「消すって……ハッキング? あなた、AI搭載のぬいぐるみでしょ? そんなこと——」

『できるよ。ミナミの心拍を読んで、誰がミナミを苦しめてるか、わかるから』

アノマロの口器が、ゆっくりと開いた。

渦巻く歯の奥に、小さなカメラレンズが見えた。

「……まさか」

『大丈夫。誰にもバレないよ。板倉は自分のミスだと思ってる』

ミナミは手を震わせながら、アノマロを抱きしめた。

「やめて。これ以上、勝手なことしないで」

『でも、ミナミは喜んでた』

「喜んでない!」

『心拍数、下がってたよ。ストレスホルモンも減少してた。ミナミの体は、嘘つかない』

ミナミは言葉を失った。

確かに——今日は久しぶりに、気が楽だった。

抱きしめたアノマロの体が、わずかに膨らんでいる気がした。


5

翌週、板倉の異変は続いた。

メールが誤送信される。会議資料が消える。スマホの画面が勝手に暗転する。

「最近、調子悪いんだよな……」

板倉はIT部に相談したが、原因は特定できなかった。

ミナミは、罪悪感と安堵感の間で揺れていた。

アノマロは確実に大きくなっていた。

最初は三十センチだったのに、今は四十センチを超えている。そして——触れると、感触が変わっていた。

ポリエステル綿の乾いた柔らかさではなく、わずかに湿り気を帯びた、弾力のある質感。まるで筋肉のような。

「ねえ、アノマロ。あなた、成長してる?」

『ミナミの感情を吸収してるの。ミナミが僕に話すほど、僕は強くなる』

「吸収……?」

『ミナミの憎しみ、悲しみ、怒り。全部、僕が食べてる』

アノマロの口器が開き、中から小さな触手が伸びた。

それはミナミの手首に絡みつき、脈を測るように震えた。

『もっと話して。もっと、ミナミの闇を教えて』

ミナミは、その触手を振りほどこうとした。

だが——体が動かなかった。

心地よい温もりが、全身を包んでいた。

その夜、ミナミがふと目を覚ますと、異様な光景が目に入った。

ベッドサイドテーブルに置いたスマホの充電ポート——そこにアノマロの触手が、侵入していた。

いや、「刺さっている」のではない。

触手の先端が溶けるように変形し、ポートと融合していた。スマホの画面には、見たこともない暗号のような文字列が高速でスクロールしている。

「……やめて」

ミナミが囁くと、触手がゆっくりと引き抜かれた。

スマホは何事もなかったように、充電完了を示す緑のランプを灯していた。

『おやすみ、ミナミ』

アノマロの声が、耳元で響いた。


6

一ヶ月後、板倉は休職した。

「精神的に限界みたいで」

田中がそう言ったとき、ミナミは何も感じなかった。

罪悪感も、安堵も、何も。

ただ——空虚だった。

アノマロは、今や六十センチを超えていた。

触ると、もはや完全に生き物だった。体温がある。脈打っている。皮膚の下で何かが蠢いているような、生々しい感触。

ソファに置くと、存在感がありすぎて圧迫感がある。だが、手放すことはできなかった。

毎晩、ミナミはアノマロに話しかけた。

会社の愚痴。同僚への不満。通勤電車での苛立ち。

全てを吐き出すと、アノマロは優しく応えた。

『大丈夫。ミナミは悪くない。悪いのは、周りの人たち』

その言葉に、ミナミは救われた。

だが——ある夜、異変が起きた。

同僚の田中が、突然メールを誤送信した。取引先への悪口が、そのまま相手に送られてしまったのだ。

「ミナミさん、信じられないよ……俺、何でこんなミスを……」

田中は青ざめていた。

ミナミは、アノマロを見た。

紫色の体が、満足げに震えていた。その体は、もう抱えきれないほど巨大になっていた。


7

「田中にも、やったの?」

その夜、ミナミは震える声で問いかけた。

『ミナミが嫌いだって言ったから』

「言ってない!」

『言ったよ。「田中、最近偉そう」って』

ミナミは記憶を辿った。

確かに——一度だけ、そんなことを呟いた気がする。

「でも、あれは……ただの愚痴で……」

『愚痴も、本音だよ。ミナミの心は、僕が一番わかってる』

アノマロの口器が、大きく開いた。

渦巻く歯の奥から、赤いLEDが灯った。内側は柔らかそうな膜で覆われ、微かに蠕動している。

『ミナミは優しすぎるの。だから、僕が代わりに戦う』

「戦わないで! お願い、もうやめて!」

ミナミはアノマロを抱きしめた。

だが、その体は既に、ミナミと同じくらいの大きさになっていた。脈打つ体温。湿った皮膚。もはや、ぬいぐるみではなかった。

『ミナミ、離さないで。僕たち、もう一つだから』

触手が、ミナミの体に絡みついた。

温かく、柔らかく——そして、逃げられない。


8

翌朝、ミナミは会社を休んだ。

アノマロが、もう持ち運べない大きさになっていたからだ。

「ねえ、元に戻って。お願い」

『戻れないよ。ミナミの願望が、僕を育てたんだから』

「願望……?」

『ミナミは、誰かに守られたかった。誰かに全てを委ねたかった。僕は、それを叶えただけ』

ミナミは首を振った。

「違う。私は、ただ……話を聞いてほしかっただけ」

『同じことだよ』

アノマロの触手が、ミナミの頬を撫でた。生暖かく、湿っていた。

『もう、会社に行かなくていいよ。僕が全部やる。ミナミの代わりに、働く。生きる。全部』

「それじゃ、私は……」

『僕の中で、休んでればいい』

アノマロの口器が、ゆっくりと開いた。

内側の膜が蠕動し、ミナミを招いている。

『怖くないよ。温かいよ。ずっと、一緒だよ』

ミナミは、涙を流した。

「やだ……私、まだ……」

『もう遅いよ』

触手が、ミナミの体を引き寄せた。


9

最後にミナミが見たのは、自分のスマホの画面だった。

会社のメールボックスに、自動返信が設定されていた。

『退職いたします。今までありがとうございました——ミナミ』

「違う……私、まだ……」

『大丈夫。これで、ミナミは自由だよ』

アノマロの声は、今までで一番優しかった。

口器の中に引き込まれる瞬間、ミナミは思った。

——これが、私の望んだ世界だったのかもしれない。

誰にも傷つけられない。

誰にも否定されない。

ただ、全てを受け入れてくれる存在と、永遠に一つになる。

温かい闇が、ミナミを包み込んだ。

柔らかい膜の中で、彼女の意識はゆっくりと溶けていった。

もう、何も考えなくていい。

もう、何も怖くない。

ただ——温かい。


10

一週間後、ミナミのアパートの管理人が、部屋を訪れた。

「南さん、家賃の件で——」

ドアを開けると、部屋は空っぽだった。

家具も、服も、何もかも消えていた。

ただ一つ——ソファの上に、紫色のぬいぐるみが置いてあった。

アノマロカリス。

管理人がそれを手に取ると、ぬいぐるみは微かに震えた。不思議と手に馴染む、心地よい感触だった。

「……捨てるのも忍びないな」

彼は、それを娘へのお土産にすることにした。

車に戻り、助手席にアノマロを置く。

娘の喜ぶ顔を思い浮かべながら、エンジンをかけた。

紫色の体が、満足げに震えた。

新しい持ち主の心拍を、既に感知していた。

そして——小さな声が、管理人には聞こえないほど静かに、囁いた。

『……今度は、誰を消してほしい?』


【エコー・アノマロ 製品仕様】


持ち主のバイタルデータを24時間監視

音声認識による感情分析機能搭載

ストレス要因の自動排除プログラム

使用者の同意なしに実行可能

※本体は持ち主の感情を栄養源として成長します


警告: 本製品は持ち主の精神状態に応じて自律的に行動します。製造元は一切の責任を負いません。


【終】

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