第三章 残滓 2
その夜、透は再び心療内科の前を通りかかった。
診察時間は終わっているはずだが、明かりがついている。
透はふと、足を止めた。
そして、入り口に向かった。
受付には誰もいなかった。待合室も、静まり返っている。
だが、奥の方から——話し声が聞こえた。
透は廊下を進んだ。
突き当たりに、小さな談話室があった。
ドアが半開きになっていて、中に人影が見える。
透はノックした。
「すみません」
中から、声が返ってきた。
「どうぞ」
透がドアを開けると、そこには——あの男性がいた。
待合室で何度も見かけた、四十代くらいの男性。
彼はソファに座り、コーヒーカップを持っていた。
「あ……すみません、間違えました」
透は引き返そうとしたが、男性が言った。
「いえ、どうぞ。患者さん用の談話室です。誰でも使えますよ」
透は躊躇したが、結局、中に入った。
男性は透を見て、微笑んだ。
「何度かお見かけしましたね。待合室で」
「はい」
透は男性の向かいのソファに座った。
男性はコーヒーカップを置いた。
「私は三島と言います。あなたは?」
「倉田です」
「倉田さん。初めまして」
三島は穏やかな笑みを浮かべていた。
しばらく沈黙が続いた。
三島が口を開いた。
「倉田さん、ここに来て——どのくらいですか?」
「一ヶ月ほどです」
「そうですか。私は、もう三年になります」
透は驚いて、三島を見た。
三年——。
三島は続けた。
「最初は、あなたと同じでした。幻聴が聞こえて、怖くて。でも、薬を飲めば治ると思っていた」
「……治らなかったんですか?」
「ええ」三島は静かに答えた。「正確には、治すことを——選ばなかった」
透の心臓が、早鐘を打ち始めた。
「選ばなかった?」
三島はコーヒーカップを手に取った。
「倉田さん、あなたは——聞こえる声を、どう思っていますか?」
透は答えに窮した。
「……幻聴、ですよね。病気の症状」
「そうですね」三島は頷いた。「医学的には、そうです。でも——」
三島は透を見た。
「その声が、『嘘』だと思いますか?」
透は息を呑んだ。
三島は続けた。
「私も、最初はそう思っていました。幻聴だから、意味がない。無視すべきだ、と。でも——」
三島は窓の外を見た。
「声が教えてくれることは、いつも正しかった。未来のことじゃない。『あり得た未来』のことだった」
「あり得た……未来?」
「そうです」三島は透を見た。「起こらなかった出来事。選ばれなかった可能性。それが、声として聞こえてくる」
透の頭の中が、混乱した。
「それは……どういう意味ですか?」
三島は少し考えてから、言った。
「倉田さんは、量子力学の『多世界解釈』を知っていますか?」
「……大学の教養で聞いた程度です」透は正直に答えた。「でも、それが幻聴と、どう関係するんですか?」
三島は頷いた。
「簡単に説明しましょう。多世界解釈では、この世界は無数の可能性に分岐し続けている、と考えます。私たちが『選択』するたびに、世界は枝分かれする。そして、選ばれなかった可能性も——別の世界として、存在し続ける」
三島はコーヒーを一口飲んだ。
「私たちが聞く『幻聴』は——その『選ばれなかった世界』の残滓なんです」
透は言葉を失った。
三島は続けた。
「あなたが聞いた声も、そうでしょう? 『三ヶ月で破談になる』——それは、あなたが契約を結んだ世界で起こったことだ。でも、あなたは契約を見送った。だから、その未来は『選ばれなかった』」
透の胸の奥が、ざわついた。
「でも……それは、ただの偶然かもしれない」
「かもしれません」三島は認めた。「でも、何度も同じことが起こったら? あなたが聞いた声の通りに、現実が動いたら?」
透は黙り込んだ。
佐藤の顔が、脳裏をよぎった。
『来週、彼女は辞める』
その通りになった。
三島は優しい口調で言った。
「倉田さん、あなたは今——薬の量を減らしていますね」
透はぎくりとした。
「なぜ、わかるんですか」
「あなたの目を見ればわかります」三島は微笑んだ。「また、『見え始めて』いる。そうでしょう?」
透は何も言えなかった。
三島は続けた。
「それは、危険です。医師の言う通り、症状は悪化するかもしれない。でも——」
三島は透をまっすぐ見た。
「あなたは、もう戻れない。一度『見えて』しまったら——普通の世界には、戻れないんです」
透の手が、震え始めた。
三島は立ち上がった。
「私は、もう薬を飲んでいません。声を——受け入れることにしました」
「受け入れる……?」
「ええ。聞こえる声は、嘘じゃない。ただ、みんなが選ばなかっただけだ。それを知った上で——私は、この世界を生きることにしました」
三島はドアに向かった。
振り返って、透に言った。
「倉田さん、選択してください。声を拒絶するのか、受け入れるのか。どちらを選んでも——孤独です」
三島は一瞬、言葉を切った。
「選ばなかった世界で生きるのは、孤独だってことです。誰もその声を聞いていない。あなただけが、『他の現実』を知っている。それは……重いですよ」
三島は談話室を出て行った。
透は一人、残された。
コーヒーカップが、テーブルの上で湯気を立てていた。
透は自分の手を見た。
まだ、震えている。
テーブルの端に、一枚のメモが残されていた。
三島の字だろう。
『観測は、確率を傾ける』
その夜、透は自宅で——薬のシートを見つめていた。
半分に割られた錠剤。
三島の言葉が、頭の中で繰り返される。
『聞こえる声は、嘘じゃない。ただ、みんなが選ばなかっただけだ』
『選ばれなかった世界で生きるのは、孤独だ』
透は錠剤を手に取った。
飲むべきか。
それとも——。
透は目を閉じた。
佐藤の笑顔が浮かんだ。
あの送別会での、穏やかな笑顔。
彼女は、幸せそうだった。
自分の選択に、満足しているように見えた。
でも——。
透は思った。
もし、自分が聞いた声が——。
もし、自分の態度が——。
彼女の選択を、ほんの少しだけ——傾けたとしたら。
透は錠剤を、口に入れた。
水で飲み下す。
全量。
医師の指示通り。
今日から、ちゃんと飲もう。
声を、拒絶しよう。
普通の世界に、戻ろう。
でも——。
透はベッドに横たわった。
天井を見つめる。
暗闇の中で、何かが——かすかに、囁いた。
『お前は、もう——選んでしまった』
透は目を閉じた。
眠れなかった。
選ばれなかった声 鳴貍 @Naricist
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