第三章 残滓 1
二回目の診察は、一ヶ月後だった。
透は同じ待合室に座っていた。今日は平日の午後、患者の数は前回より少ない。
薬は効いている、と透は思った。幻聴は、ほぼ消えた。たまに、かすかに何かが聞こえる気がするが、それも気のせいだと言い聞かせている。
だが——失われたものの方が、大きい気がした。
データを見ても、何も「見えない」。
数字は数字のまま。パターンは抽出できるが、その「先」が見えない。
透の強みだった直感が、鈍っている。
いや、「鈍っている」というより——切断された、という方が正しいかもしれない。
「倉田透さん、どうぞ」
看護師に呼ばれ、透は診察室に入った。
医師は前回と同じ、穏やかな表情で迎えてくれた。
「調子はどうですか?」
「幻聴は、ほとんど聞こえなくなりました」
「それは良かった」医師はメモを取った。「副作用は?」
「眠気と、少し……集中力が落ちた気がします」
「仕事に支障は?」
透は少し考えた。
「……支障、というほどではないですが。ただ、以前と比べて——何か、感覚が変わった気がします」
「感覚?」
「データを見る時の、直感というか。以前は、数字の背後にある『流れ』が見えたんです。でも今は、それが——」
透は言葉に詰まった。
医師は静かに聞いていた。
「薬のせいで、何か大切なものまで失われた気がする、ということですか?」
「……はい」
医師は少し考えてから、言った。
「倉田さん、幻聴が聞こえていた時、あなたの脳は過剰に情報を処理していました。普通なら無視される微細な刺激まで、すべて『意味のある情報』として拾っていた」
「はい」
「それは、ある意味で『超感覚』のように感じられたかもしれません。でも、それは脳の異常な状態です。持続すれば、必ず破綻する」
医師は透を見た。
「薬は、その過剰な処理を抑えています。だから、『以前ほど見えなくなった』と感じるのは当然です。でも、それは正常な状態に戻っただけです」
「正常……」
透は呟いた。
正常、とは何だろう。
データの向こう側が見えなくなった状態が、正常なのか。
それとも——。
「薬の量を減らすことは、できますか?」
透は思わず、そう口にしていた。
医師が眉をひそめた。
「お勧めしません。まだ一ヶ月です。症状が安定するまでは、今の量を続けるべきです」
「でも——」
「倉田さん」医師は穏やかだが、確固とした口調で言った。「幻聴が戻ったら、今度はもっと強くなる可能性があります。そして、それを『啓示』や『予知』だと信じ始めたら——」
医師は言葉を切った。
「現実との境界が、曖昧になります。それは、危険です」
透は黙り込んだ。
医師は続けた。
「あと二ヶ月、今の量で様子を見ましょう。それから、徐々に減らしていく。それが安全な方法です」
透は頷いた。
「……わかりました」
診察室を出る時、医師がもう一度言った。
「倉田さん、焦らないでください。回復には時間がかかります」
透は待合室を通り過ぎようとして、一人の男性と目が合った。
前回も見た、あの男性だ。
四十代くらい、スーツ姿。今日も、同じ場所に座っている。
男性は透を見て、小さく会釈した。
透も会釈を返した。
そして、病院を出た。
それから一週間後、透は薬の量を——自己判断で——減らし始めた。
医師の指示に反することは、わかっていた。
でも、このままでは——自分が自分でなくなってしまう気がした。
データアナリストとしての「目」が、失われてしまう。
そして——透の脳裏に、佐藤の顔が浮かんだ。
あの送別会での、穏やかな笑顔。
自分は、彼女の選択を——ほんの少しだけ、傾けてしまったのかもしれない。
あのランチで、一瞬だけ揺らいだ彼女の決意。
それを、自分は——放置した。
距離を取った。
もし、あの時の自分に——あの「見える」感覚があれば。
もし、彼女の心の動きを、もっと敏感に感じ取れていたら。
何か、違う結果になっていたかもしれない。
透は思った。
あの感覚を、完全に失いたくない。
たとえ、それが危険だとしても。
透は、半分だけ服用することにした。
朝の一錠を、ピルカッターで割る。
これなら、大丈夫だろう。
少しずつ、感覚が戻ってくるかもしれない。
最初の数日は、何も変わらなかった。
だが、四日目の朝——。
透は通勤電車の中で、再び「それ」を感じた。
満員電車。無数の人々。
その中で、透の耳に——かすかに、声が混じった。
『このプロジェクト、失敗する』
透は身を固くした。
今のは——誰の声だ?
周囲を見回す。誰も、そんなことを話していない。
幻聴だ。
また、戻ってきた。
透は唇を噛んだ。
でも——同時に、何かが「戻ってきた」感覚もあった。
データを見る時の、あの「感度」。
透は目を閉じた。
これは、正しい選択なのか。
それとも——。
オフィスに着くと、透はいつものようにデータ分析を始めた。
今日の課題は、新規プロジェクトのリスク評価だ。
画面に数字が並ぶ。
透は、それを見つめた。
そして——気づいた。
「見える」
数字の背後に、流れが見える。
微細なパターン。データの不整合。そして、その先にある——。
透の指が、キーボードの上で躍った。
計算式を組み立て、グラフを生成し、傾向を抽出する。
そこには、明確な「警告」があった。
このプロジェクト、リスクが高すぎる。
透は報告書をまとめ、課長に提出した。
課長は目を通して、驚いたように顔を上げた。
「倉田、これ本当か?」
「はい。データから読み取れる限り、このプロジェクトは——」
「問題が多すぎる、と」
課長は溜息をついた。
「お前の勘、また戻ったのか」
透は答えられなかった。
これは「勘」なのか。
それとも——。
その日の午後、会議でプロジェクトは見直しになった。
透の分析が、決定打となった。
同僚たちが、透に声をかけてくる。
「さすがだね、倉田さん」
「やっぱり、データのことは倉田さんに任せるのが一番だ」
透は笑顔で答えた。
でも、心の中では——不安が膨らんでいた。
この「見える」感覚。
それは、薬を減らしたからだ。
つまり、症状が戻りつつある。
透は自分のデスクに戻り、引き出しから薬のシートを取り出した。
半分に割られた錠剤。
透は、それを見つめた。
続けるべきか。
それとも——。
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