第二章 失った感覚 3
それから、透は意識的に佐藤との接触を避けるようになった。
データの照会が必要な時も、メールで済ませた。廊下ですれ違いそうになると、別の道を選んだ。
なぜそうしているのか、自分でもわからなかった。
ただ——彼女と話すことが、怖かった。
もし、あの声が本当だったら。
もし、自分が関わったことで、何かが変わってしまったら。
もし、自分が——。
透の頭の中は、混乱していた。
薬を飲んでいるのに。
症状は落ち着いているはずなのに。
それなのに、不安だけが膨らんでいく。
一週間後——。
朝礼で、課長が言った。
「佐藤さんが、今月末で退職されることになりました」
フロア全体がざわついた。
透は凍りついた。
本当に——辞めた。
あのランチの後、佐藤は少し前向きになっていたはずだ。
「もう少し考えてみます」と言っていた。
それなのに——。
透の胸の奥で、何かが軋んだ。
自分は、何をしたんだろう。
あの時、声をかけたから——。
佐藤の選択は、一瞬だけ揺らいだ。
でも、結局——元の軌道に戻った。
いや、違う。
もしかしたら——。
透は思った。
もし、自分がもっと関わっていたら。
もっと、彼女を支えていたら。
彼女は、辞めなかったかもしれない。
それとも——。
透は頭を振った。
わからない。
何が正しかったのか。
何が間違っていたのか。
ただ一つ、確かなことは——。
自分が「知っていた」こと。
そして、その「知識」が——。
透の行動を、変えてしまったこと。
***
送別会は、金曜日の夜に開かれた。
居酒屋の個室。二十人ほどが集まっていた。
佐藤は中央の席で、笑顔で話していた。みんなが彼女に声をかけ、労をねぎらっている。
透は隅の席で、ビールを飲んでいた。
宴も半ばに差し掛かった頃、佐藤が立ち上がった。
「皆さん、本当にありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げた。
「三年間、たくさんのことを学ばせていただきました。辞めるのは、正直、すごく迷いました」
佐藤は言葉を切った。
「最近、少し迷ったんです。このまま続けられるかもって。でも——やっぱり、家族との時間を大事にしたいと気づきました。母が、私を必要としている今、そばにいたいと思いました」
彼女は笑った。穏やかな、決意の込もった笑顔だった。
「新しい人生も、頑張ります。皆さんも、お元気で」
拍手が起こった。
課長が立ち上がって、乾杯の音頭を取った。
「佐藤さん、お疲れ様でした! 新しい人生も、頑張ってください!」
「乾杯!」
全員がグラスを掲げた。
透も、グラスを上げた。
だが、手が震えていた。
佐藤の言葉が、胸に突き刺さった。
『最近、少し迷ったんです』
あのランチのことだろうか。
透が話を聞いた時——。
彼女の決意は、一瞬だけ揺らいだ。
でも、透は——それ以上、関わらなかった。
距離を取った。
そして、彼女は——元の道に戻った。
佐藤の笑顔を見る。
彼女は幸せそうだ。
これは、彼女の選択だ。
誰も、疑わない。
統計的には、十分あり得る選択だ。
それなのに——。
透の頭の中で、声が響いた。
『来週、彼女は辞める』
その通りになった。
でも——。
彼女の可能性は、本当にこれだったのか。
それとも、自分が——。
自分が聞いたから。
自分が、微妙に態度を変えたから。
あのランチで、一瞬だけ揺らいだ彼女の決意を——。
自分は、結局——放置したんじゃないか。
自分が怖くて、距離を取ったから。
彼女は、また孤独になって——。
そして、辞める道を選んだ。
透は思った。
もし、自分が——もっと関わっていたら。
もっと、支え続けていたら。
彼女の選択は、違っていたかもしれない。
可能性は——傾いたかもしれない。
ほんの少しだけ——でも、決定的に。
「倉田さん、飲んでます?」
後輩が話しかけてきたが、透は上の空だった。
「ええ、まあ」
透はグラスを口に運んだ。
液体が、砂のように喉を通った。
宴は続いた。
笑い声、乾杯の音、佐藤への励ましの言葉。
その全てが、透には遠く聞こえた。
彼は、ただ——自分の手の震えを、止めることができなかった。
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