第二章 失った感覚 2
服薬を始めて一週間。
幻聴は、確かに減った。
あの「声」は、もうほとんど聞こえない。会議中も、通勤電車の中も、静かだった。透は安堵した。やはり、ただの病気だったのだ。治療すれば治る。
だが、同時に——何かが失われた気がした。
それは、二週間後に気づいた。
透はいつものように、大量のデータセットと向き合っていた。新規プロジェクトの市場分析。数百万件のトランザクションデータから、顧客の行動パターンを抽出する作業だ。
かつての透なら、このデータの海に飛び込むのが楽しかった。数字の背後に隠れた「物語」が見えてくる瞬間——それは、まるでパズルのピースが一瞬でハマる時のような快感だった。
だが、今——。
透は画面を見つめた。
数字が、ただの数字にしか見えない。
売上、購買頻度、カテゴリ別の傾向。すべて「データ」として認識できる。分析もできる。平均値を出し、標準偏差を計算し、グラフを作成する。
でも——何も「見えない」。
透は椅子に背を預けた。
何かが、違う。
以前は、データを見るだけで「流れ」が見えた。この顧客層は次にこう動く、この商品カテゴリはこう伸びる——そういう「予感」が、直感的に湧いてきた。
今は、その予感がない。
透は額に手を当てた。
薬のせいだろうか。
それとも——。
透は思い出した。あの「声」が聞こえていた時のことを。
声は、不快だった。恐怖だった。でも同時に、何か——「別の層」が見えていた気がする。データの向こう側にある、もう一つの現実。
それが、今は——フィルターがかかったように、見えなくなっている。
「倉田さん、進捗どうですか?」
後輩の声に、透は我に返った。
「ああ、うん。もう少しかかりそうだ」
「何か問題でも?」
「いや……大丈夫」
透は笑顔を作った。
大丈夫。問題ない。ただ、少し——感覚が鈍っているだけだ。
後輩が去った後、透は再び画面を見つめた。
数字の羅列。
それは、もう何も語らなかった。
***
三週間が過ぎた頃、透は同僚の佐藤の様子がおかしいことに気づいた。
佐藤は二十代後半の女性で、営業サポート部門に所属している。仕事は丁寧で、いつも笑顔を絶やさない。透とは直接の接点は少ないが、時々、データの照会で連絡を取ることがあった。
その佐藤が、最近——疲れているように見えた。
ランチタイム、透は偶然、休憩室で佐藤と一緒になった。彼女はテーブルの隅で、スマートフォンを見つめていた。コンビニのサンドイッチが、まだ包装されたまま置かれている。
「佐藤さん、食べないんですか?」
透が声をかけると、佐藤ははっと顔を上げた。
「あ、倉田さん。すみません、ちょっとぼんやりしてて」
「大丈夫ですか? 疲れてます?」
「ええ、まあ……最近、ちょっと忙しくて」
佐藤は笑ったが、その笑顔は引きつっているように見えた。
透は何か言おうとして、やめかけた。
自分も、今は余裕がない。誰かを気遣う余裕なんて——。
だが、佐藤の顔をもう一度見て、透は思い直した。
「……よかったら、話します?」
佐藤が驚いたように目を見開いた。
「え?」
「何か、抱え込んでるように見えて。僕でよければ、聞きますよ」
佐藤は少し迷うような表情を見せた。それから、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
二人は休憩室の奥のテーブルに移動した。窓の外には、ビルの谷間の空が見える。
佐藤はサンドイッチの包装を開けながら、ゆっくりと話し始めた。
「実は……母が、体調を崩しまして」
「お母様が?」
「ええ。三ヶ月前くらいから、通院が必要になって。一人暮らしなので、私が付き添わなきゃいけなくて」
佐藤は言葉を切った。
「それで、仕事との両立が……難しくなってきたんです」
透は黙って聞いた。
「会社に相談して、シフトを調整してもらったんですけど、やっぱり限界があって。病院の予約が午後に入ると、早退しなきゃいけない。そうすると、他の人に迷惑がかかる」
佐藤の声が、少し震えた。
「このまま続けるのか、それとも……辞めて、母の看護に専念するか。ずっと悩んでるんです」
透は慎重に言葉を選んだ。
「会社は、何か言ってますか?」
「いえ、みんな優しいです。『無理しないでいいよ』って。でも、それが逆に……申し訳なくて」
佐藤はサンドイッチを一口かじって、また置いた。
「仕事、好きなんです。ここに入って三年、やっと仕事の流れもわかってきて。これからもっと貢献できると思ってた。なのに……」
彼女は窓の外を見た。
「でも、母は一人です。私が看ないと、誰が看るんだって」
透は自分のコーヒーカップを見つめた。
何と言えばいいだろう。
正解なんて、ない。
佐藤の選択は、佐藤自身が決めることだ。
それなのに——。
その時、透の耳に、かすかに声が聞こえた気がした。
『来週、彼女は辞める』
透は身を固くした。
いや——今のは幻聴じゃない。ただの、想像だ。薬を飲んでいる。もう、声は聞こえないはずだ。
透は深呼吸をして、佐藤を見た。
「佐藤さん、今すぐ決めなくてもいいんじゃないですか」
「え?」
「もう少し、様子を見てもいいと思います。お母様の状態も、変わるかもしれない。会社の状況も、変わるかもしれない」
透は続けた。
「焦って決断すると、後悔することもある。僕は——データを扱う仕事をしてるんで、よくわかるんですけど、判断は『情報が揃ってから』の方がいい」
佐藤が透を見た。
「でも……迷惑をかけ続けるのは」
「迷惑じゃないですよ」透は首を振った。「佐藤さんがいなくなる方が、会社にとっては損失です」
それは、本心だった。
佐藤は優秀だ。彼女の仕事ぶりを、透は何度も見てきた。
「それに」透は付け加えた。「佐藤さん自身が、まだ迷ってるんでしょう? だったら、もう少し考える時間を持ってもいいんじゃないですか」
佐藤は目を伏せた。
しばらく沈黙が続いた。
それから、彼女は小さく笑った。
「……そうですね。ありがとうございます、倉田さん」
「いえ」
「少し、楽になりました。誰かに話すだけでも、違うんですね」
佐藤はサンドイッチを手に取った。今度は、ちゃんと食べ始めた。
「もう少し、考えてみます。焦らずに」
透は頷いた。
それでいい。
これは、佐藤の選択だ。
誰かに急かされて決めることじゃない。
二人はしばらく、他愛ない話をした。最近見たドラマのこと、週末の予定のこと。佐藤の表情が、少しずつ明るくなっていくのが見えた。
ランチタイムが終わり、二人は休憩室を出た。
「倉田さん、本当にありがとうございました」
佐藤は頭を下げた。
「また、相談に乗ってもらってもいいですか?」
「もちろん」
透は笑顔で答えた。
佐藤は自分のデスクに戻っていった。
透もデスクに向かいながら、ふと思った。
あの「声」——『来週、彼女は辞める』——は、消えた。
今は、もう聞こえない。
それは、佐藤と話したからだろうか。
それとも、ただの偶然か。
透は首を振った。
考えすぎだ。
自分は、ただ——同僚の相談に乗っただけだ。
それだけのことだ。
***
だが、それから数日後——。
透は再び、佐藤の姿を見かけた。
彼女は電話をしていた。相手は、おそらく病院か、家族か。
その表情は、また曇っているように見えた。
透は足を止めた。
また声をかけるべきだろうか。
それとも——。
その時、かすかに——本当にかすかに——声が聞こえた気がした。
『来週、彼女は辞める』
透は目を閉じた。
いや、違う。
これは幻聴じゃない。
自分の、不安だ。
佐藤が辞めてしまうんじゃないかという、ただの——。
透は目を開けた。
佐藤は電話を切り、デスクに座った。
その背中は、小さく見えた。
透は、廊下に立ち尽くした。
あのランチで、彼女の決意を一瞬揺らがせた気がした。
佐藤の表情が、ほんの少しだけ——明るくなったように見えた。
それ以上関わったら、もっと大きく可能性を歪めてしまうんじゃないか。
そんな、根拠のない恐怖が、透を縛った。
もし、自分がまた声をかけて——。
もし、彼女の選択を、さらに揺るがせてしまったら——。
それは、彼女の「本当の選択」を奪うことになるんじゃないか。
透は何もできなかった。
ただ、立ち尽くすことしか。
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