第二章 失った感覚 1
診断書には、こう書かれていた。
『統合失調症の疑い。経過観察が必要』
透は白い紙を手に、心療内科の待合室の椅子に座っていた。周囲には数人の患者がいる。みな、静かに自分の番を待っている。誰も目を合わせようとしない。
壁には、ポスターが貼られていた。『心の健康、大切にしていますか?』明るい色調で描かれたイラスト。だが、その明るさが、かえって透には空々しく感じられた。
待合室の隅には、一人の男性が座っていた。四十代くらいだろうか、スーツ姿で、膝の上に本を置いている。ページをめくる手が、どこか落ち着いていた。透は何となく、その姿に目を留めた。
「倉田透さん、診察室へどうぞ」
看護師に呼ばれて、透は立ち上がった。
診察室は思ったより広かった。白い壁、グレーのソファ、窓からは中庭の緑が見える。医師は五十代くらいの男性で、穏やかな表情をしていた。
「初めまして。倉田さん、ですね」
医師は透にソファを勧めた。透は座り、医師と向かい合った。
「問診票、拝見しました。幻聴が聞こえる、と」
「はい」
透は言葉を選びながら答えた。
「最初は、三週間ほど前です。会議の最中に、誰も話していないはずの声が聞こえました」
「どんな声でしたか?」
「男の声です。低くて、感情がない。まるで……機械が読み上げるような」
「内容は?」
透は躊躇した。
「……未来のことを、言っていました」
医師が眉を上げた。「未来?」
「『この契約は三ヶ月で破談になる』と。そして、実際に——」
透は言葉を切った。これを言ったら、どう思われるだろう。妄想だと診断されるだろうか。
医師は穏やかな声で言った。
「実際に、どうなりましたか?」
「……その取引先企業は、不正会計で摘発されました。契約していたら、うちも巻き込まれていたはずです」
沈黙が落ちた。
医師はメモを取った。
「倉田さん、声が聞こえる前後で、何か生活の変化はありましたか?」
「残業が多かったです。睡眠時間も短くて」
「ストレスを感じていましたか?」
「……はい」
透は正直に答えた。
「仕事のプレッシャーが、ずっとありました。データ分析が専門なので、間違えられない。数字に嘘はつけない。それが——重かったです」
「なるほど」医師は頷いた。「倉田さん、幻聴というのは、必ずしも『作り話』ではないんです」
「え?」
「脳が、過剰な情報処理をしようとした結果、起こることがあります。特に、ストレスや過労が重なると、神経伝達物質のバランスが崩れる」
医師は図を描いて見せた。
「簡単に言うと、脳が『ノイズ』を拾いすぎてしまうんです。普段なら無視できる微細な刺激を、意味のある情報として処理してしまう」
「ノイズ……」
「そうです。だから、幻聴の内容が『予言めいたもの』になることもあります。あなたの脳が、無意識に集めた情報——データの微細な矛盾、相手の表情、声のトーン——それらを総合して、『結論』として出力する。ただし、それが意識的な思考ではなく、『声』として聞こえてしまう」
透は息を呑んだ。
「つまり……僕の直感が、声になった?」
「そう考えることもできます。ただ、それは正常な状態ではありません。脳が過負荷になっている証拠です」
医師は処方箋を書き始めた。
「まずは薬物療法を試しましょう。抗精神病薬です。神経伝達物質のバランスを整えて、幻聴を抑えます」
「副作用は?」
「眠気、倦怠感、集中力の低下などが出ることがあります」
透の手が止まった。
「集中力の……低下?」
「一時的なものです。脳が安定すれば、元に戻ります」
医師は透を見た。
「倉田さん、心配なのはわかります。でも、今のままでは、症状は悪化する可能性があります。幻聴が強くなれば、日常生活にも支障が出る」
「……わかりました」
透は処方箋を受け取った。
「二週間後、また来てください。様子を見ながら、薬の量を調整します」
透は診察室を出た。
待合室を通り過ぎる時、あの男性と目が合った。
彼は本から顔を上げ、透を見た。その目は——疲れているように見えた。だが、どこか諦めたような、静かな光も宿していた。
透はその視線を避けて、病院を出た。
外は、相変わらず灰色の空だった。
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