第6話「蝋燭の火」

 冬の寒い日も、春のむず痒い時間も、一か月に何度かの逢瀬で過ぎていく。


 レンと初めて出会った日と、レンの汚れた作業服を愛おしそうに笑った日を思い出しながら、スズは片手に持ったカバンを見下ろす。


「よしっ」


 そして、自分の頬をぺしんと叩いて呼吸を整え、小屋の中を覗いた。


「やっほ」


 作業服を着てコーヒーを淹れていたレンはスズの姿を認め、小さく笑った。


「よお、入れよ」


「うん」


 スズはレンの隣に座り、自然に日傘を差して二人の間に置いた。


「カケル君は?」


「しばらく来てない」


「え、何で?」


「行政が動いてくれることになったらしい」


 一拍置き、スズは口を開ける。


「ほんと?」


「本当だ。もう悪いようにはならない」


 スズは長いため息を吐き、両手で顔を覆った。


「良かったぁ」


「そういえば、カケルから」


 レンはそこで言葉を止めてしまう。


「カケル君から?」


「いや、何でもない。砂糖、三杯で良いよな」


「ううん、二杯で」


「無理すんなよ」


「大人になったってこと」


 レンはやれやれと笑い、砂糖を二杯入れてスズに渡す。


 二人ともすぐにはそれを飲まず、そこに映る自分を見つめた。


「もう、一年だな」


「うん、早いね」


 スズはコーヒーを少しだけ飲む。


「ここがあったから、頑張れたよ」


 そう呟くスズの脳裏に蘇るのは戦いの日々。


 調査、追跡、戦闘。心を消耗し続ける生活の中で、スズはレンの不器用な優しさに救われていた。


「そうかよ」


「ふふっ、そうだよ」


 スズはくすぐったそうに笑い、再びコーヒーを見つめる。


「ずっと、続けば良いな」


 レンは言葉を返さず、口をむっと噤んだままスズを見つめる。


「そう思うでしょ?」


 目が合い、レンは真っ赤な顔をすぐさま逸らす。


「そうだな」


 ぶっきらぼうに短く呟くレンを見て、スズの胸に温かさが広がっていく。


 しかしその温かさはすぐに燃えるような熱に変わり、スズの指先を強張らせた。


『今日、言うんだ』


「会社がさ、アパート貸してくれることになった」


 レンの突然の告白に、スズは一拍置いて目を見開く。


「ほんと⁉」


「ああ、実家じゃ遠いし不便だろうからって」


「そっか、そっかぁ。良かったね」


「まあ、狭くてぼろい部屋だけどよ」


 レンは嬉しいときに鼻を触る。


 そのしぐさを見て、スズはその嬉しさを閉じ込めておくように脚を抱えた。


「良かったら、一緒に、住まないか」


「えっ」


 瞬間、スズのカップが傾く。


「あっつ! おい、零れてる!」


「あっ、ああ! ごめん! 大丈夫⁉」


「大丈夫、だけどよ」


 ズボンの裾を純白のハンカチで一生懸命にぽんぽんと叩くスズを見下ろし、レンの口元がふやける。


「どうだ」


 スズは手を止め、ハンカチを抱くように握ったまま、遠慮がちにレンを見る。


「その、一緒に住むっていうのは、えっと」


「おう」


「そういう、こと?」


 レンは数秒スズの顔を見つめ、右手で自分の口元を隠した。


「そういう、ことだ」


 ハンカチを握る手に力がこもる。


 戦いの日々とはあまりに温度が違う幸せを前に、言葉を失う。


「夢、みたい」


 呟き、緊張が解けた。


 アパートの小さい部屋。助け合いながら生活する自分とレン。


 ご飯は自分が作り、お弁当にはたっぷりの愛情をこめる。たまに遊びに来るカケルとリンとまるで家族のように笑い合う。


「嬉しい」


 喧嘩もするけれど、いつもみたいにすぐ仲直りする。


 そして自分もいつか、尊敬する母のように。


「お前、泣くことねえだろ」


「泣くこと、だよ」


「んで、これ」


 ハンカチで目元を抑えるスズの前に、レンは小さな箱を差し出す。


「カケルと一緒に選んだんだ」


 開ける。


 世界一綺麗な宝石が目に飛び込む。


「婚約指輪」


 小屋をちらりと覗く夕日が宝石をホワイトブルーに輝かせる。


 もう、言葉にならなかった。


「スズ」


 すぐに幸せな体温に包み込まれる。


「好きだ」


 しかしスズはすぐには抱きつかず、呼吸を確保するために僅かにレンの胸を押す。


「私も、あのねっ、私も」


「えっ? 何だよ」


 スズは胸に手を当てて一生懸命に呼吸を整える。


「私、今日、血、持ってきてないんだ」


「は?」


「あなたのものに、して欲しくて」


 沈黙が流れる。


 そして、レンの笑い声が空気を揺らした。


「それ、今言うかよ」


「だって、私も言わなきゃ」


「大概不器用だわ。お前も」


 呟き、細い身体を抱き締める。


 スズも一生懸命にそれに応えた。


「愛してるぞ」


「私も、好き。愛してる」


 車が行き交う橋の下、小屋の中で、二人の愛を囁き合う声だけが響く。


 初めての行為に戸惑いながらも、相手も同じだと確認して微笑み合う。


 肌を伝う血さえ愛おしく感じた。


 夏の長い昼が終わり、ようやく夜になった頃、スズは小屋から顔を出した。


「ぷはっ」


 顔を上げ、わっと声を漏らす。


「今日、満月だよ。綺麗」


 小屋から這い出て、星空の下に立つ。


 思わず手をかざした。


 祓魔師の証である小指の指輪の隣、婚約指輪が異なる輝きを放った。


「レン」


「ん? おー」


 同じくレンも小屋から這い出て、夜空を見上げる。


「お父様に、話してみる。結婚したい人が出来たって」


 スズを見下ろし、レンは真剣な表情で頷く。


「ああ」


「どうなるか、わからないけど。でも、気持ちは伝わると思う」


「そう、だな」


 そう言い、降ろしかけた左手をレンの手が包んだ。


「きっと大丈夫。そうだろ?」


 スズは恥ずかしそうに微笑み、力強く頷く。


 そして、レンと目を合わせ、瞼を閉じ――。


「筧スズ」


 そのとき、男の冷たい声が飛び込む。


 冷たい衝動に駆られるままスズは振り返る。


 そこにいたのは、純白の隊服に身を包んだ三人の男。


「後をつけさせてもらった」


 短い言葉。意味を理解する。


「わかってるな?」


「スズっ」


 瞬間、レンがスズの手を引く。


 逃げようと伝える。


 しかし、スズはここに来てようやく思い知った。


 そういえば最初から、逃げ場なんて無かったと。


「わかってます」


 だから、レンに惹かれたんだと。


「逃げません」


「スズッ!」


 愛おしい人を見上げる。


 まだ小さいリンの顔も透けて見えたような気がした。


「ごめんね」


 スズはそう呟き、レンの前に立つ。


「罪は償います。何でもします。どんな苦痛も受け入れます」


 背後、レンの強烈な妖気が湧き上がっていくのを感じる。


「だから、家族と、この人だけは助けてください」


 前を見て、はっきりとそう言った。


 それは、スズが初めて「世界」に我儘を言った瞬間だった。

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