第5話「生きているだけ」
「こんにちは」
夏真っ盛り、蝉の声が響く午後五時。スズの声が小屋の中に響く。
ぐったりと項垂れていたレンは顔を上げ、目を丸くした。
「レン、久しぶり」
「お前、何で」
そのとき、バレーボールで遊んでいたカケルが駆け寄り、遠慮がちにスズを見上げる。
「カケル君、久しぶり」
「……うん」
「お腹、空いてる?」
「!」
スズは片手に持ったカバンの中からお弁当箱を取り出した。
「お腹、空いてるっ。良いの⁉」
「良いよ。ほら、レンも」
驚き、目を見開いているレンを見て、スズは恥ずかしそうにはにかむ。
「ほら、私にも出来ることがあるって、言ったでしょ? これくらいしか出来ないけど」
宝物を手に入れたカケルの声が小屋にこだまし、レンは恐る恐る口を開く。
「良いのか?」
「良いよ」
そう言って笑ったスズの目はどこか遠くを見ていた。
「動物の血も入ってるから。水筒に」
その一言を聞いたレンはぎょっとするが、促されるまま大きな弁当箱を受け取る。
「いただきます!」
「どうぞ。ほら、レンも」
「何で、ここまで」
二段重ねの弁当。サイズの同じ水筒が二つ。片方には赤いテープが貼ってある。
「一人は寂しいでしょ? お兄ちゃん」
「……」
「カケル君、美味しい?」
「美味しい!」
「傷、良くなったね」
レンも恐る恐る弁当箱を開け、色とりどりの景色に圧倒される。
「元気だった?」
聞かれ、すぐに答えることが出来ない。
「まともな飯は久しぶりだ」
「そっか。学校には行ってる?」
「いいや」
「何歳だっけ?」
「十七」
「同い年なんだっ。ちゃんと学校行かないと卒業出来ないよ?」
「母ちゃんかよ」
レンはそう言い、ハッと口を開けて呆然とした。
次の瞬間にはその目から一筋の涙が零れた。
「えっ⁉ 大丈夫⁉」
「レン兄ちゃん⁉」
「な、何でもねえよ馬鹿っ」
レンは乱暴に目元を拭い、大きな唐揚げを口に放り込む。
味が染みていくのと同時に、涙に蓋をしていた強がりが溶けていった。
「大丈夫だよ。大丈夫」
スズはレンの目元にハンカチを当てる。それは、あの日レンから貰った純白のハンカチだった。
「きっと、大丈夫。何とかなるよ」
ハンカチから逃げた涙が卵焼きの上に落ちた。
「綺麗事、言うなよっ」
「信じなくても良いよ。私は、信じてるから」
同じく泣き始めたカケルの頭を撫で、スズは優しく微笑む。
生きるための行為が交互に行き交う。
時間が経っても陽の落ちない世界で、狭い小屋の中男女が日傘に包まっていた。
「卒業したら、どうするの」
聞いたのはスズだ。レンは僅かに身をよじり、天井を見上げた。
「この前親父から連絡があった。卒業したら夜勤の現場仕事手伝えって」
「でも、レンの親は」
「そう。今まで放置しといて何様のつもりだって感じだが、他に行く当ても無い」
「カケル君は……」
「変わらない。俺はあいつに居場所を作ってやるだけだ」
小屋の外、カケルがボールを強く叩く音が響く。
「将来的には、そういう奴らが一緒に暮らせるところを作りたい」
そして、ボールが水とぶつかる音が飛び込む。
「夢、なんだね」
「ああ」
スズの温度の高い視線に当てられ、レンは目を細める。
「お前は、夢あんのかよ」
「夢」
スズは体育座りをした脚に顔を埋め、遠慮がちにレンを見上げる。
「笑わない?」
「笑わねえよ」
スズはレンをじっと見つめる。
レンは気づかないふりをして頬杖をつく。
「お嫁さんに、なりたい」
「は?」
スズと目が合い、レンは思わず吹き出す。
「ねえ、笑わないって言ったじゃん!」
「だって、さ、子供みてえな夢だな」
「リンちゃんは素敵って言ってくれたよ?」
「そりゃ子供で女だからだろ。男でそんなこと言う奴いねえよ」
「はいはい、ヤンキー様の言う通りでございますね」
何だそれと失笑するレンから顔を背けたスズは、困り顔でこちらを見るカケルと目が合った。
「スズ姉ちゃん! ボール取れる⁉」
「あ、はーい! 危ないから川に近づかないでね!」
スズは四つん這いになって小屋から這い出る。
半分になった日傘の下、レンはスズが座っていた部分をそっと撫でた。
「これ、届くかなっ」
「お姉ちゃん! 頑張れー!」
川の淵ギリギリに足を残し、スズは懸命に手を伸ばす。
「よしっ」
触れた。
しかし、
「うわぁっ!」
直後、バランスを崩して川に落ちた。
心配そうにおろおろするカケルとびしょ濡れになったスズを見下ろし、レンはため息をついた。
「ほら、これ」
レンがぶっきらぼうに差し出したのはバスタオル。
「着替えは?」
「ありがとう。ジャージ、持ってきてるから」
「そうか」
「すぐ、返すね」
タオルで首元を拭きながら、上目遣いでレンを見上げる。
レンは口を噤んで目を逸らした。
「ああ、すぐ返せよ」
「レン兄ちゃん! 物干し竿作ってあげよ!」
服を引っ張られるレンと必死にせがむカケル。
レンは恥ずかしそうにスズをチラチラと見て、やれやれとため息をついた。
スズは優しい目でそんな二人を見つめた。
車にかき消される賑やかな日々は、それから約一年間続いた。
あの日を迎えるまで。
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