第4話「半分の月」
戦いの匂いが消えないボロボロの小屋の中、青年が草を握り締める音だけが響く。
「まず、名前は?」
「……レン」
スズはレンの開いた瞳孔を見つめながら小さく頷く。
そして、未だ怯えたままの男の子に視線を向ける。
「君は?」
「カケル」
「カケル君、レンとはどういう関係?」
聞かれ、カケルはふっとレンを見る。
「お兄ちゃん」
スズはふーっと細く長いため息をつき、地面に両膝をついた。
「何でこんなところに?」
「……」
「レン」
「えっ、えっと、ここは、避難所だから」
「避難所?」
聞かれ、レンは遠慮がちに小さく頷く。
「カケルをいじめる親と学校からの」
その瞬間、レンの身体を纏う黒い妖気が噴き上がる。
『これを探知したんだ』
胸の奥に重く響くプレッシャーを感じながら、スズは俯くレンにそっと手を伸ばす。
「あんたは?」
スズは動きを止め、僅かに手を引っ込める。
「スズ。筧スズ」
「俺を殺しに来たんだな」
「……」
否定も肯定も出来ず硬直する。
レンはそんなスズを一瞥すらせず、カケルに鋭い視線を向けた。
「カケル」
「うんっ」
すぐに返事をしたカケルはスズの横をスルスルと通り過ぎる。
「悪い。今日はもう帰ってくれ」
「でも、レン兄ちゃんは?」
「俺は、この人と話さないといけないから」
レンはカケルの頭を撫でながらスズを睨んだ。
星の瞬きが確認出来るようになった頃、ランドセルを背負ったカケルの背中を見送る。
振り返ったカケルに手を振るレンの表情は見えなかった。
「あんた、祓魔師ってやつなんだろ」
「え」
「昔、親父から聞いた」
二メートル程の距離が空いた二人の間を風が通り過ぎる。
「良いのかよこんなことして」
「……わからない」
「何だそりゃ」
スズは顔を上げ、レンの後ろ姿を見つめる。
ボサボサの髪とよれた夏服を包んでいた妖気は消え去っていた。
「妹が、いるの」
「そうか」
「その子にも、痣がある」
スズはそう呟き、拳を握り締める。
思い出すのはあの瞬間、リンの悲痛な表情。
『お姉ちゃんは、身体に痣、いくつある?』
「その子も、親に?」
聞かれ、スズは激しく首を横に振る。
「違う。きっと、訓練で。身体が小さいから」
「だから、同情したのか」
聞かれ、答えられない。
しかしその沈黙はレンに明確な意思を伝えた。
「ありがとう。見逃してくれて」
顔を上げたスズの瞳にレンの表情が飛び込む。
それは、怒りを堪えている顔。
「でも、もう近づくな」
「ッ!」
言葉を失い、その表情から目を離せない。
「俺はカケルと助け合って生きていく」
そう言って噤んだ口は、スズには理不尽に耐えているように見えた。
「誰の助けもいらねえ」
レンは立ち尽くすスズを一瞥し、横を通り過ぎる。
スズの頬の傷に風が染みて、そこから一筋の血が流れ出た。
「何でよ」
「あ?」
小屋に戻ろうとしていたレンが振り返る。
スズは俯き、唇を強く嚙んだ。
「みんな、関係無いって顔するんだ」
月明かりに照らされたスズの長い黒髪が揺れる。
「傷ついてるのに、あなたには言えないって言う」
「何の話だ」
「理不尽は当たり前じゃないよ」
スズが振り向く。
レンは言葉を失う。
月明かりの下の少女は泣いていた。
「耐えてるだけじゃダメ」
「……何が言いたい」
「あなたも、傷ついてるんでしょ?」
スズはレンの目を真っ直ぐ見つめる。
レンは、咄嗟に目を逸らした。
「あの子、あなたのこと全く怖がってなかった。吸血や、それに近い行為を何もしていない証拠」
「だから何だよ」
「助けを求めてくれれば、私にだって出来ることがある」
レンは顔を上げ、強烈な殺気のこもった目でスズを睨んだ。
「綺麗事言ってんじゃねえ。お前に何の覚悟があるってんだよ」
「正しいことを選ぶ覚悟ならある」
「自己犠牲が正しいことだって?」
スズは何も言わず、ただ真っ直ぐ見つめる。
「皆最初は綺麗事言うんだ。でも誰も責任を取らなかった! どうせお前も同じだ!」
「同じじゃない。綺麗事でもない」
「黙れこの野郎ッ!」
レンは叫び、スズの襟首を掴み上げる。
しかし、次の瞬間に目を奪われた。
涙を浮かべても尚消えない、スズの目の光に。
「私は、悔しいだけ」
呟いたその声はレンの怒りをそっと撫でた。
雲が移動し、水面に半月が映った。
「優しい人が、ただ傷ついていくのが」
手を、離す。
崩れた服を直す素振りも見せず、スズは俯いてすすり泣く。
行き場を無くしたレンはバツの悪そうに首を掻き、ポケットに手を突っ込んだ。
「ほら」
「え?」
差し出したのは、純白のハンカチ。
「傷、悪かったな」
「……えっと、ありがとう」
「ブラック、飲めるか?」
ハンカチを傷に当て、顔を上げたスズはレンの目を見て数秒固まる。
「飲めない」
「そうか、我慢してくれ。少し待て」
呆然と立ち尽くすスズに、レンは自分の上着を投げる。
「とりあえず中、入れよ」
言われ、まだ立ち尽くす。
「話、聞きたいんだろ?」
ぶっきらぼうに言われ、スズは涙を拭った。
「うん、お邪魔します」
少年と少女が狭い小屋の中で寄り合う。
半月はまだ水面に映ったまま。
コーヒーは苦かった。
しかし、だからこそスズは忘れなかった。
「ただいま帰りました」
筧家の屋敷の扉を開け、スズの疲れた声が廊下に鳴る。
「お姉ちゃんっ」
直後にリンが居間から飛び出し、スズに駆け寄る。
「おかえりっ」
「ただいま」
「スズ、任務はどうだった」
リンの後に居間から出てきた父を見上げ、スズは至って冷静に口を開いた。
「吸血鬼はいませんでした。気配を察知して逃げたのかも」
「そうか。ご苦労だった。飯、早く食え」
「はい」
そして、スズはリンの脇腹を優しく撫でた。
「リンちゃん」
「ん?」
腕の中で顔を上げるリンを、そっと見つめた。
「後で格闘訓練、しよっか」
「えっ、教えてくれるの⁉」
「うんっ、皆のこと驚かせちゃおう」
「やったやった! お父様! お姉ちゃんがね!」
慌てて駆け出したリンの背中を見送る。
靴を脱いで、家に上がる。
頬の傷は、消えていなかった。
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