第3話「橋の下で」
「市内で調査任務、ですか」
弓道着に身を包んだスズは一枚の手紙にじっと視線を落とす。
「ああ、直々の指名だ」
同じく弓道着を着た男の言葉を受け止め、スズは戸惑いがちに左手小指の指輪を見る。
「緊急では、ないんですね」
「ああ、しかし看過出来る程度でも無い」
ふと、矢が空気を切り裂く音がスズの耳に飛び込む。
見ると、放たれた一本の矢が人間大の藁人形の腕に突き刺さっていた。
「すぐ行けるか」
聞かれ、スズの中に緊張が走る。
「はい」
拒否権は無いと、わかっていた。
「お姉ちゃんっ」
しかしそのとき、リンの声が響く。
見ると、道着を着たリンが食い入るように柵にしがみついていた。
「妹です。少しだけお時間いただけますか」
「ああ、構わないが」
スズは弓を手に持ったまま胸当てを外そうと身体をよじる。
「見込みの無い人間に関わっても時間の無駄ではないか」
瞬間、手が止まる。
頭から指先まで冷たいものが流れ、スズは奥歯を噛み締めた。
「お前程の腕があるなら、どこにだって」
「それは私が決めることです」
短く吐き捨て、男に弓を押し付ける。
翻り、一瞥もせずに更衣室へ歩いていった。
呆けた顔で押し付けられた弓を見ていた男は、先程までスズが狙っていた藁人形に視線を移した。
「本当に、もったいない」
その藁人形の頭部には、まるで針山のように無数の矢が突き刺さっていた。
「リンちゃん、どうしたのっ」
制服に着替えたスズは駆け足でリンの目の前にしゃがむ。
リンはスズの身体の下から上まで見ると、俯きながら指をいじった。
「お姉ちゃんのこと、見に来た」
「そっか、でもごめんね。任務に行かなきゃ」
「今日帰って来る?」
「うん、すぐ帰ってこられると思う」
そのとき、弓道場の脇道の先、一台の車が停まる。
「ごめんね。行かなきゃ」
「お姉ちゃんッ」
切羽詰まったその語気に、スズは足を止めて振り返る。
「お姉ちゃんは、身体に痣、いくつある?」
「えっ?」
聞かれ、反射的に腹の辺りに手を当てる。
「無い、かな。痣」
見ると、リンは今にも泣きそうな顔で身体を擦っていた。
目が合う前に、逸らされた。
「筧スズっ、行くぞ!」
「あっ、はい! ごめんね。行ってくるね」
手を振り、翻って走り出す。
走りながら、スズは先程の光景を反芻する。
擦れて色あせたリンの道着。
受け身を取る脇腹の部分を、決して触ろうとしなかったこと。
大きな悩みを隠されている、そんな嫌な気配が喉の中にまで充満し、スズはそれを無理やり飲み込んだ。
「この辺りのはずなんだけど」
河川敷に沿うように伸びる歩行者道、スズは歩きながら地図と睨めっこする。
傾き始めた太陽は辺りをほの赤く照らし、大きな川の水面にぶつかって幻想的なグラデーションを作り出した。
「強い妖気を持つ吸血鬼、か」
スズはその光景を見つめながら呟く。
脳裏に蘇るのは、巨大な黒いオーラを纏った吸血鬼の手強さ、しぶとさ。
そのクラスになると、前衛がいないと対処出来なかった。
「まず、数と居場所を突き止めて報告……ん?」
前方に視線を戻し、早足で歩き出す。
一車線の狭く長い橋、その下に一人、男の子がいた。
「遊んでるのかな」
川の中に手を突っ込むリンと同年代くらいの男の子。
一応声を掛けてみようと斜面へ足を踏み出した時、視界の端で異様なものを捉えた。
男の子に近づいていくのは、よれた夏服を着た一人の青年。
その青年が纏う、人間のそれとは程遠いどす黒いオーラ。
「吸血鬼ッ」
スズは報告も忘れ、斜面をバランスを取りながら滑っていく。
「その子に近づくな!」
声を張り上げ、青年と目が合う。
長く、ぼさぼさの黒髪、その前髪から覗くのは虎のように鋭い眼光。
スズは胸に手を当てる。
次の瞬間、スズの胸の辺りが青白く発光し、現れたのは純白の短い弓。
「あっ、待て!」
しかしあろうことか青年は、男の子を後ろから抱えて無防備に背中を晒して走り出す。
青年が駆け込んだのは橋の下のぼろい小屋の中。
「大人しく……!」
出てこい、その言葉は喉に詰まって出てこなかった。
「来るなッ! 来るなァ!」
小さな小屋の中、鋭い歯と赤い目を露わにした吸血鬼はひどく怯えていた。
顔に痣を作った男の子を必死でかばいながら。
「何だお前! 何だお前!」
声を張り上げる度、纏う妖気は気圧される程強大になっていく。
スズは腹に力を込め、吸血鬼に向かって弓を引き絞った。
「その子を離せ」
「何でだよ! 何でてめえにそんなこと言われなきゃいけねえんだよ!」
スズの視界の中、男の子の怯えた表情がリンと重なる。
「絶対に離さねえ! 俺の弟だ!」
吸血鬼の放ったその一言に、スズは思わず矢を引く手を止める。
弦が緩んでいく感触と共に、涼しい風が頬を撫でた。
男の子の纏うオーラはか弱く、小さい白。
人間で間違いなかった。
「もう何も、奪わせねえ。何も」
男の子は今にも泣き出しそうに涙を浮かべ、服をひしっと掴んだ。
吸血鬼の服を、小さい手でしっかりと掴んだ。
それはまるで、リンがスズにそうするように。
「……見せて、傷」
スズは呟き、弓を手放す。
そして、入り口をくぐった。
「な、何だよっ! 来んな!」
「大丈夫だから」
「来んなっ!」
吸血鬼の青年は無我夢中で手を振り回す。
その手はスズの頬に掠り、確かな傷を付けた。
「はっ……」
青年は驚き、反射的に手を引っ込める。
しかしスズはそんなこと気にも留めず、しゃがんで男の子に手を伸ばす。
「痣が。切り傷もいっぱい。酷い」
スズは涙を流す男の子の顔を包み込むように両手を添え、気を集中させた。
直後、男の子の身体を大きな白いオーラ、霊気が包み込む。
それは瞬く間に顔の小さな傷を塞いでみせた。
「私にはこれが限界。痣は無理」
「お前、何だよ。お前」
腰を抜かして後退る青年に視線を向け、スズは口を開く。
「それよりまず、話を聞かせて、今すぐ」
太陽は地平線に隠れ始め、夜の星は小屋の中まで照らせない。
規律では無い何かを燃料に、スズの中に青い炎が灯った。
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