第2話「田んぼ道」

 包丁が小気味良くまな板を叩く音が広い台所に響く。


 高校の制服の上にエプロンを着けたスズは素早く火を止め、味噌汁を少しだけ掬って小皿によそった。


「うん、美味しい」


 昔を思い出すように目を細めたスズは居間を振り返った。


「リンちゃーん! 起きたー?」


 しかし、返事の代わりに父が新聞紙を捲る音が返ってくる。


「スズさん、すみません遅くなってしまって」


「ばあやっ」


 暖簾を押す必要も無く腰を屈めて入ってきたその人を見て、スズはすぐさま駆け寄る。


「大丈夫だよ。腰、痛いんでしょ?」


「痛みは引きましたから。手伝わせてください」


「ばあや……」


「スズ、学校遅れるんじゃないか?」


 そのとき父の声が響き、二人は目を見合わせて頷く。


 手際良く食事を並べていき、スズは父を一瞥した。


「お父様も少しは手伝ってくれても良いんじゃないですか?」


 父は新聞を捲る手を止め、深い皺が目立つその顔で忌々しそうにスズを見た。


「これは、男の仕事じゃないだろう」


「何度も言ってますよね? 家族のためなんです。男も女もありません」


 スズの目に射抜かれた父はいそいそと新聞紙に隠れてため息をついた。


「誰に似たんだか」


父はそう呟いてから、渋々腰を上げた。


「ほら、貸せ。腰が痛いんだろう?」


「旦那様、嬉しそうですね」


「どこがだっ。お前は大人しく寝ていろ」


「あらあら。でも、朝ご飯は食べさせてくださいな」


 しゃもじを強く握って不器用にご飯をよそっていく父を見て、スズは目を細める。


 そのとき、スズの耳に廊下をとてとてと走る音が飛び込んだ。


「おはようございますっ」


 ぼさぼさの髪に気付きようも無い程ぴったりと目を閉じたリンが、居間の入り口に立つ。


「リンちゃん。もう四年生なんだから、お寝坊はダメでしょ?」


 スズはリンに駆け寄り、そっと抱き寄せる。


 今でもまだ、あのときのくすぐったい匂いがスズの鼻をつついた。


「うん」


 スズは寝癖を直すついで頭を優しく撫でる。


「さ、ご飯食べよ」


「うんっ!」


 リンは椅子に座り、家族全員を確認して小さい両手を合わせる。


「いただきますっ」


「いただきます」


 リンがご飯を頬張る音とスズメの鳴く声だけが居間に響く。


「スズ、任務は順調か?」


 父の言葉に、スズはお茶を飲んでから落ち着いて口を開いた。


「はい。すっかり一人で任せていただけるようにもなりましたし、戦い方もわかってきました」


「吸血鬼は狡猾だ。油断はするなよ」


「大丈夫です。お父様の娘ですから」


 父はお茶を喉に詰まらせて咳き込み、不愛想にそうかとだけ呟いた。


「私もいつか、お姉ちゃんと一緒に任務に行きたい」


 リンのその一言に、一瞬全員が箸を止めた。


「そうだね。いつか」


「焦ることは無い。今はじっくり学べば良い」


「はいっ」


 ご飯をかき込むリンを見て、スズは言葉を押し殺すように口を噤んだ。


 そして、ふと時計に目をやった。


「大変、もうこんな時間っ」


 広い和風建築のお屋敷に女たちの元気な声と足音が響く。


 仏壇に向かって手を合わせた二人の娘を見つめた母の遺影は、朝日に照らされて一層輝いた。


「行ってまいります」


「行ってまいり、ますっ」


 一部分だけどうしても直らなかった寝癖をピンと跳ねさせ、リンは元気良く手を上げる。


「気を付けてな」


「行ってらっしゃいませ」


「ばあや、ゆっくり休んで、早く良くなってね」


「……スズさん」


 玄関の扉に手を掛けたたスズは振り返る。


「ご立派になられましたね」


 スズはゆっくりと目を見開き、そして目尻に溜まっていく涙をそっと拭った。


「行ってまいります」


 扉を開け、朝日が優しい笑顔を照らす。


 二人の天使が家を出て、大人が二人残った。


「旦那様、リンお嬢様は……」


「ああ」


 家を出てすぐの田んぼ道、初夏の朝日に照らされた水面がきらきらと輝いた。


 スズは長い黒髪を奔放に揺らし、短い黒髪のリンの手を引いた。


「あれは才能が無い」


 父はそう言い、懐から一枚の便せんを取り出した。


「スズにはもう少し、一人で頑張ってもらわないといけないな」


 その便せんを留めた真っ赤な蝋。


 そこに刻まれた『封呪庁』の文字。


 父はその文字を見て唇を噛んだ。


 田んぼの水面に反射した光が、二人の笑顔を照らす。


『この子を守る』


『それが、私の責任だ』


 スズは、優しい瞳の奥で静かに決意を燃やした。

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