育てた愛、半分の月
渋谷楽
第1話「純白なあなた」
一歩踏み出す度に軋んだ音を立てる廊下を、小さい足がすり足気味に歩いていく。
七歳の筧(かけい)スズは揺れる黒髪と自分の足を見るのに飽き、目の前を歩く男を見上げた。
「お父様、お母様は大丈夫なのでしょうか」
短髪の男はすぐには答えず、スズを振り返らずに口を開いた。
「あれは少し体調が悪いだけだ。すぐに元気になる」
「もう、一月も話せていません」
「出産だ。仕方ないだろう」
スズは垂れ目に涙を浮かべ、それを父に悟られないように俯いた。
尊敬する母を消耗させてまで、生まれてきた妹。
スズはどう言葉にすれば良いのかわからなかった。
「それより、訓練は順調なのか」
唐突に鋭く降ってきたその言葉に驚き、スズは素早く顔を上げる。
「は、はい。私には弓取りの才があると、言っていただきました」
スズはそう言い、まだ矢の感触が残っている右手を擦る。
「弓か、それは良い。早く立派な祓魔師となり、社会に貢献するのだ」
「はい」
いつも父の言っている意味があまりわからなかった。
しかしスズは短い人生の中で学んだ。
はいと言えば、全てが丸く収まると。
「赤ん坊は良いものだ。ちょうど良い刺激になるだろう」
そう言う父は何かを思い出すように天井を見上げていた。
「刺激、ですか?」
おい、入るぞ。父のそんな言葉が廊下に響き、ふすまが開けられる。
暗い表情を浮かべていたスズは顔を上げ、直後、一瞬だけ呼吸をするのを忘れた。
「あら、もうお仕事は良いので?」
「赤子の様子を見に来ただけだ。すぐに戻る」
「そう言わずにゆっくり触れ合えばよろしいのに……あら、スズお嬢様、いらしたんですね」
家政婦が大事そうに抱いているそれ。
小さすぎてちゃんと生きているのか疑った。
「お嬢様。妹ですよ。リンお嬢様です」
「リン、妹」
うわ言のように呟いたスズは吸い寄せられるように部屋に入っていく。
「抱いてみますか」
「え? どうやって?」
「わたくしの真似をしていただければ……ほら」
「わ……わっ」
小さい腕の中に収まる、何にも形容しがたい重さ。
くすぐったい匂いが鼻について、その子猿のように愛らしい顔に目を奪われる。
「んぎゃ、ぎゃ」
次の瞬間もがくように身体をよじらせたリンを見て、スズは強烈な不安に駆られる。
「あ、ばあやっ、泣くっ」
「大丈夫です。そのまま」
「そのまま⁉ えっ⁉」
「んーぎゃ」
腕の中で動き、和服をひしっと掴まれる。
その瞬間、まるで宝物そのものであるかのように笑う。
「おい、あれの体調は大丈夫なのか」
「それが……お嬢様もいらっしゃいますので、こちらに」
「リン」
スズの呼びかけに返事にならない声を上げる。スズは左腕でしっかりと支えたまま、右手で顔をそっと撫でた。
「お姉ちゃんだよ」
殺しの技術が染みつきつつある、その右手で。
「守ってあげるからね」
そう言い、ふよふよのお腹に顔を埋めた。
初めてミルクを与え、量を間違えてリンがすぐに吐いたとき。
夜泣きで起きて、腕が痺れてもあやし続けたとき。
スズはその全てが愛おしかった。
しかしある日、闘病を続けていた聖母が去った。
「お姉たん」
煙となって空に消えていく母を見上げていたスズはハンカチで目元を拭い、まだ歩き始めたばかりのリンの目線までしゃがんだ。
「リンちゃん」
天使だけが残った。
「大丈夫だよ」
語尾が震えた。
それを敏感に察知したリンは声を上げて泣いた。
「大丈夫」
怖さを悟られないように、スズはリンを抱き締めた。
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