幻境相逢雲欲遁

 露店が並び、人々が行き交っている。

 野菜を売るダミ声。腐った魚の匂い。子供の甲高い笑い声。

 一見すれば、どこにでもある庶民の市場の風景——のはずだった。


 だが、何かが決定的に狂っている。


 露店に並ぶ野菜は、色が彩度を失って灰色にくすんでいる。表面のテクスチャが粗く、拡大するとピクセルの角が見えそうだ。

 行き交う人々の顔は、三種類のテンプレートを無造作に使い回したコピー&ペースト。目が死んでいるどころか、虹彩のデータさえ読み込まれていない黒い穴が空いている者もいる。

 人偶NPC

 最低限の资源リソースで動かされた、魂のない背景データ。


 リンは耳を澄ませた。

 「いらっしゃい、安いよ」「いらっしゃい、安いよ」——まったく同じ波形の音声が、正確に3.5秒ごとに繰り返されている。

 風が吹いているエフェクトはあるが、頬には何の感触もない。

 足元の石畳を踏みしめても、触覚フィードバックが返ってこない。まるで雲の上を歩いているような、気持ちの悪い浮遊感。


 空を見上げる。

 誰かが水彩絵の具をぶちまけたような、ベタ塗りの青空。雲は同じ形のオブジェクトが等間隔で並んでいる。

 描画エンジンが追いついていないのか、視界の端で世界が常に明滅フリッカーしていた。

 這可就有意思了おかしいな——。免费区フリーエリアとはいえ、ここまでリソースを削るか。


 『夢幻後宮・點擊就送クリックで無料体験』。

 『這裡是平民區ここは庶民区です請付費享受更多樂趣課金してもっと楽しみましょう』。


 空中に浮かぶ半透明の看板が、視界を遮るように点滅している。

 嘘ではない。登録は無料だ。ここにいる限りは、金はかからない。


 だが、壁の向こうの「後宮」は違う。

 煌びやかな宮殿。完璧な造形の人偶NPC。五感を刺激する極上の体験。

 月額の請求画面を見たことがある。その桁数を数えただけで、胃の腑が裏返りそうになった。


 庶民はここだ。

 市井しせい免费区フリーエリア

 リソースの残り滓で作られた、データの掃き溜め。


 高い壁の向こうから、金色の光が漏れている。

 暖かそうで、豊潤な光。

 だが、その光はこちら側の薄汚い露店には決して届かない。

 照らさないのだ。わざと。

 持たざる者に、持てる者の輝きを見せつけるためだけに、その壁は存在している。


 リンは市場を歩いた。


 假牒偽装IDは完璧だ。

 今日の名前は「小雨シャオユー」。市井の住人。何の変哲もない、無課金の庶民的な偽皮アバター

 顔は量産型のモデルを少し弄っただけの地味なもの。服装も、初期装備の麻の服だ。


 目的は情報収集。

 後宮の内部構造。警備の配置。侵入経路バックドアの有無。

 正面から突破して弾き返されたのなら、横から、あるいは下から潜り込む方法を探すしかない。


 人混みをかき分け、後宮の城壁に近づく。


 白い壁。

 高く、滑らかで、継ぎ目がない。

 免费区フリーエリアの粗雑な描画の中で、そこだけが異質に精緻ハイレゾだった。

 近づくだけで、空気が重くなるのがわかる。強力な防壁ファイアウォールの圧だ。


 リンは周囲を警戒しながら、指先をそっと壁に向けた。

 触れるか触れないかの距離。


 瞬間、指先から脳へと、鋭い電流のような情報が流れ込んできた。


 ——『玉階生白露』。


 詩句コードだ。

 李白。『玉階怨』。


 ——玉階に白露生じ(玉のきざはしに白い露が降りて)。


 宮中で王の訪れを待ち続ける女の、静かで冷たい怨みの詩。


 前回とは違う。

 あの時は杜甫だった。七言律詩の複雑な構成。

 今は五言絶句。短く、鋭く、拒絶を示している。


 ——私の侵入を受けて、礼法プロトコルを更新したのか。


 リンは指を離した。

 壁は沈黙したままだ。だが、その白さはより冷たく、より堅固に見えた。

 正面突破は無理だ。防壁の密度が上がっている。下手に触れば、脳を焼かれる。


 別の方法を探すしかない。

 人の噂。裏の抜け道。あるいは、システム上のバグ。


 リンは露店の男に話しかけた。野菜を並べている中年の偽皮アバターだ。


「後宮のこと、何か知らないか」


 男は振り向いた。

 顔のテクスチャが一瞬遅れて読み込まれ、目鼻立ちが歪んで表示される。不気味なバグだ。


「後宮? あんた、金持ちの知り合いでもいるのかい」


 声に抑揚がない。録音されたデータを再生しているだけだ。


「いや、ただの好奇心だ……壁の向こうには何がある?」

「好奇心じゃ壁は越えられないよ。あそこは別世界さ。雲の上の楽園だ。俺たち地を這う虫には関係ない」


 男は興味を失ったように、また野菜の並べ替えを始めた。

 同じ動作。同じセリフ。

 まるで壊れたレコードだ。


 他の露店も似たようなものだった。

 後宮については誰も知らない。知ろうともしない。

 壁の向こうは、彼らにとって存在しないも同然なのだ。

 諦めという程序プログラムが、彼らの思考を支配している。


 リンはため息をつき、市場の端にある茶屋に入った。


 粗末な建物だ。

 暖簾をくぐっても、布が肌に触れる感触がない。

 店内は薄暗く、客は誰もいなかった。人偶NPCすら配置されていない。资源リソースの節約だ。

 誰も来ない場所に、計算能力を割く必要はないという龍華の判断。


 椅子に座る。

 軋む音がしない。体重を支えられている感覚が希薄だ。

 壁に掛かった掛け軸の文字は、近づくとピクセルが滲んで読めない。

 「道」と書いてあるようにも見えるし、「無」と書いてあるようにも見える。


 テーブルの上には、最初から茶が置かれていた。

 湯気が立っていない。器を手に取っても、温度がない。

 口に運ぶ。味もしない。ただの水だ。いや、水ですらない。

 味覚データすら省略されている。ただ「茶を飲んだ」というフラグだけが、システムログに記録される。


 虚しい。

 これが、持たざる者の世界。


 ——と、空気が変わった。


 音が、遅延せずに届いた。

 衣擦れの音。足音。

 茶屋の薄暗く、解像度の低い空間に、急に質量のある密度が生まれた。

 無味無臭だったはずの空間に、微かに——何かの香りが漂った。


 白檀。


 リンの背筋が凍った。

 前に、誰かが座った。


 男だった。

 庶民の麻の服。どこにでもいそうな平凡な顔。

 だが、その輪郭線だけが、周囲の粗い背景から浮き上がるほどに鮮明だ。

 人偶NPCにしては動きが滑らかすぎる。


「相席、いいか」


 声は低く、穏やかだった。

 だがその響きには、この安っぽい茶屋には不釣り合いな「品格」があった。


 リンは男の目を見た。

 ——瞳の奥に、何かがある。

 黒曜石のような深さ。すべてを見通すような静けさ。

 見覚えがある。


「……あんた」


 リンの声が震えた。不可能ありえない——。


 男が微笑んだ瞬間、偽皮アバター偽装マスクが溶けた。


 麻の服が、光の粒子となって剥がれ落ち、下から白い絹の衣が現れる。

 平凡な顔のテクスチャが書き換わり、玉を削り出したような美しい輪郭が露わになる。

 黒い髪が、風もないのに揺れて肩に流れ落ちる。


 ——白雲バイユン

 あの夜、リンを撃退した管理者アドミニストレーター


「なぜここに」


 リンは身構えた。

 逃げるべきだ。前回は詩句で神経を縛られ、強制切断に追い込まれた。今度は何をされるかわからない。

 だが——足が動かない。

 恐怖ではない。

 彼の瞳に、敵意が見当たらないからだ。


「私を追ってきたのか。始末するために」

「いいや」


 白雲が口を開いた。

 声は穏やかだった。後宮で聞いた時と同じ、玉を転がすような声。


「私は——逃げてきた」

「逃げる? あんたが?」

「後宮は……冷たい」


 男は壁に背を預けた。

 白い衣が、薄汚れた灰色の壁に映え、そこだけ切り取られた別世界のようだ。


「ここは誰も来ない。龍華の監視の目も、普段は薄い。免费区フリーエリアのデータになど、誰も価値を見出さないから」


 ——後宮には、私を放さない者がいる。


 白雲は続きを言わなかった。だが、その沈黙が雄弁だった。


 自嘲気味な笑み。

 後宮の管理者が、こんな最底辺の場所に安らぎを求めているというのか。


 リンは警戒を解かなかった。

 だが、テーブルの下で握りしめていた拳を、少しだけ緩めた。


「あんたは何者だ。ただの程序プログラムじゃないな?」

「人のことを聞くのなら、自分から名乗るのが礼儀だろう」

「……小雨シャオユー


 今日の假牒偽装ID。市井の住人。何の変哲もない名前。

 嘘だ。バレているのはわかっている。だが、真実を明かすわけにはいかない。


「そんな偽名のことではない」


 白雲の声は静かだった。

 リンの魂の奥底に触れるような響き。


「お前の——本当の名だ」


 脳の継ぎ目が、軋んだ気がした。

 本当の名?

 私の名前は「灰琳フイリン」。灰色の街で生きるリン。

 それとも、もっと前の——失われた記憶の中にある名前のことか?


「……答えられるとでも」


 白雲の手が、膝の上で強く握りしめられた。

 感情の揺れ。

 すぐに開いた。何もなかったように。


 白雲はそれ以上追及しなかった。

 茶を一口啜る。味はない。それでも彼は懐かしそうに目を細めた。


「あの夜の詩——『相見時難別亦難』。なぜあれを選んだ」


 唐突な問い。

 白雲の目が、一瞬だけ揺れている。


「……読んだのか。あの意味を」

「李商隠。無題……永遠に会えない人への想いを詠んだ詩だ」


 白雲は目を逸らし、湯気のない茶碗を見つめた。


「あんたのせいで神経シナプスが焼けた。三日間、頭痛が止まらなかった」

「それは詫びる……だが、前回、お前は後宮に違法に侵入した。私は管理者だ。排除せざるを得なかった」


 事務的な言葉。

 だが、その声には微かな悔恨が滲んでいた。


「今回は違う。ここは免费区フリーエリア。誰でも入れる。誰が何をしようと、私の管轄外だ。だから——」


 白雲は言葉を切った。

 何かを言いかけて、飲み込んだ。

 リンを見つめる黒曜石の瞳に、熱いものが宿っている。

 データではない。程序プログラムではない。

 「心」としか呼べない何かが。


 その時。

 空気が、不協和音を奏でた。


 遠くで警報アラートが鳴り響く。

 視界の端で、赤い警告灯が明滅し始めた。


 茶屋の外——市場の人偶NPCたちが、一斉に動きを止めた。

 「いらっしゃい」の声がプツリと途切れる。

 代わりに、耳障りな電子ノイズ。

 空の色が、青から不気味な灰色へと一瞬で切り替わった。

 まるで世界のテクスチャが剥がれ落ちたように。


「見つかった。——逃げろ」

「何?」

「龍華の強制捜査スキャンだ。——金龍ジンロンに、座標を拾われた」


 白雲はリンを見た。

 黒曜石の瞳に、焦燥——いや、違う。


 ——純粋な、心配。


「お前まで巻き込まれる。ここにいた記録が残れば、アカウントごと焼かれるぞ。今すぐ離脱ジャックアウトしろ」

「待て。まだ聞きたいことが——」

「相見時難——」


 白雲が呟いた。

 あの詩句の、冒頭。

 別れの言葉の代わりに。


「……別亦難、だろ」


 リンは反射的に、続きを返した。

 別れることも、また難しい。


 白雲の息が止まった。

 時が、一瞬だけ凍りついた。


「……覚えて——」

「さっき読んだからな」


 嘘だ。

 口が勝手に動いた。


 白雲は笑った。

 目を細めて、とろけるように穏やかに。

 それは、管理者でも人偶でもない、人間の笑顔だった。


「——そうか」


 その声は、どこか遠く、懐かしかった。


「だから——ちかおう。また会える、と」


 その言葉が終わる前に、世界が崩壊を始めた。

 警報音が鼓膜を破るほどの音量になり、茶屋の壁がデータ分解されていく。


 リンは奥歯を噛み締め、離脱ジャックアウトのコマンドを叩いた。

 視界がホワイトアウトする寸前、白い衣だけが、暗い世界に鮮烈に残像として焼き付いた。

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