往事如煙路未闌
目を開けると、そこは廃墟だった。
腐りかけの防音材が垂れ下がる、第四階層の
黄ばんだスポンジが天井から内臓のように垂れ下がり、結露した汚水がポタポタとリズムを刻んでいる。
毎回、違う場所だ。
同じ
二度目に座標を取られれば、待っているのは逮捕ではなく、物理的な「消去」だ。
首の
神経が軋み、脊髄を冷たい虫が這うような悪寒が走る。
義眼のオートフォーカスが合うまで、正確に3.2秒。
現実への
黴びた繁体字のポスター。『月亮代表我的心』。誰も歌わなくなった古いラブソングが、蛍光灯の残骸に照らされている。
カウンターには埃の積もったマイク。モニターは割られ、基板が肋骨のように覗いている。
カイが見つけてきた場所だ。
電源だけは生きていた。水道は死んでいる。
空気は湿り、カビと埃、それから——微かに、硝煙の匂いがした。
視線を床に落とす。
足元に、ドローンの残骸が転がっていた。
赤い単眼が粉々に砕かれている。蜂のような羽根が二枚、無惨に引きちぎられて壁際に落ちている。
龍華の偵察型『LH-202-B』。通称「羽虫」。
その破片に、乾いた血が点々と付着していた。
——私が潜っている間に、ここを嗅ぎつけられたか。
部屋の隅、闇に溶け込むようにして、カイが壁に背を預けていた。
安物の煙草を咥えている。火は点いていない。
「……死んだかと思ったぞ」
低い声。少しの間があって、
「——冗談だ」
リンは身体を起こした。
全身が鉛のように重い。
カイは煙草を指先で弄んでいる。ライターには手を伸ばさない。
目を合わせようとしない。
「収穫は」
「
「それを確かめるためだけに、一人で潜ったと」
「そうだ」
嘘ではない。だが、すべてでもない。
換気扇が、油の切れた音を立てて回っている。
「——あの男は」
カイがポツリと言った。
白い衣の男。
リンは答えなかった。——喉の奥に、白檀の香りが微かに蘇った気がした。
カイは鼻を鳴らし、短く息を吐いた。それ以上は訊かない。
◇ ◆ ◇
カイの首筋に、真新しい擦り傷があった。
シャツの襟に滲んだ汗染みと、鉄錆のような赤黒いシミ。
左肩の下、ジャケットが不自然に膨らんでいる。止血パッチか、あるいは簡易的な包帯か。
リンは見た。見て、意識的に視線を外した。
いつもそうだ。
リンが
指の火傷。腕の裂傷。脇腹を押さえる仕草。
一度も説明されたことはないし、一度も訊いたことはない。
訊かない。カイも言わない。
互いの過去を探らない。
それが契約だ。仕事上の信頼という名の、不可侵条約。
私が潜っている間、外で何があったか。
ドローンが何機来たか。龍華の追手がどこまで迫っているか。その傷は、誰につけられたものか。
訊けば、答えが返ってくる。
答えが返ってくれば、知ってしまう。
知ってしまえば——
だから、訊かない。
カイが、テーブル代わりの木箱に端末を放り投げた。
乾いた音がして、画面が青白く光る。
「やつら、侍女を募集してる」
画面には、けばけばしい繁体字の広告が表示されていた。
『龍華集団・夢幻後宮部門・侍女職員募集』。
その下に、安っぽいキャッチコピーが踊っている。
『あなたの夢を、後宮で叶えませんか?——充実の福利厚生、キャリアアップ支援、完全個室寮完備。龍華があなたの未来を全力でサポートします』
「夢幻後宮の運営スタッフだ。
カイが説明する。
「月給は破格だ。九龍塞の平均年収が、一ヶ月で手に入る」
破格、というのは嘘ではないだろう。
龍華は金だけは出す。その代わり、何を取られるかは契約書の隅にも書いていない。魂か、記憶か、それとも尊厳か。
「身元調査あり、だが
カイは煙草を指先で弄んだ。
「子曰く、巧言令色少なし仁、だ」
リンはすぐには答えなかった。換気扇の低い唸りだけが部屋を満たす。
一拍おいて、冷めた視線をカイへ向けた。
「……意味、分かって言ってるの?」
「さあな。……まあ、お前がこれから行く場所のことだ」
面接も仮想空間。生身の人間を雇うのに、現実では顔を合わせない。
徹底した効率化。あるいは、後ろめたいことでもあるのか。
「どこで拾った」
「お前が仮想で遊んでる間に」
カイは煙草に火をつけた。
紫煙が上がり、硝煙の匂いを少しだけ誤魔化す。
リンは画面を見つめた。
正規ルートでの潜入。内側から入る。防壁を突破する必要がない。堂々と、正面から。
胸の奥で、白檀の香りが蘇った気がした。
あの男がいる場所へ。
「——これで入れる」
リンは呟いた。
「……あり——」
言葉を飲み込んだ。
言ったら、何かが変わる気がした。この絶妙な均衡が、音を立てて崩れる気がした。
「仕事だ」
カイが先に言った。
その言葉が、礼を言わせないための壁だと、リンは知っている。
ぶっきらぼうに。突き放すように。
最初に会った時も、そう言った。
二年前。あの路地裏。
雨の降る夜だった。
ドローン犬に囲まれていた。
三匹。赤い単眼が暗闇の中で飢えたように光る。鋼の牙。金属の爪が石畳を削る不快な音。
壁に背をつけていた。弾は切れ、義肢の右腕はショートして動かなくなっていた。配線が焼けた臭い。自分の身体から煙が出ている。
三匹が距離を詰める。完全な包囲網。逃げ場はない。
ここで終わる。ゴミのように、誰にも知られずに。
そう思った瞬間——暗闇に、煙草の火が見えた。
男——のちに、カイと名乗る男が、路地の奥から歩いてきた。
ゆっくりと。散歩でもするように。
ドローン犬が振り向いた。赤い単眼が、新しい標的を冷徹にロックする。
「犬型三機。推奨弾数、各一発」
男の懐から、無機質な女の声が響く。
「足りるな」
煙草を咥えたまま、引き金を引き絞った。
青い光条が一匹目の単眼を貫通。砕け散ったレンズが雨粒を白く染める。だが鋼の躯体は止まらず、突き出された鉤爪が男の脇腹を浅く抉った。
散る鮮血。二匹目が跳躍した。
男は躱しきれず、肩口を肉ごと削がれる。千切れた布と血飛沫。
だが衝撃を殺さず泥水を転がり、跳ね上がった銃口から三発目——光弾が腹部を貫き、噴き出した冷却液が路地を汚した。
「残弾ゼロ」
「知ってる」
三匹目が首筋を狙って飛びかかる。
男の靴底が下顎を最短距離で蹴り上げ、折れた鋼の牙が宙を舞った。
着地を許さず、鈍器めいた藍銃の重い銃身が、犬型の頭蓋を無慈悲に粉砕する。二度、三度。ひしゃげた金属から最後の一花が散り、駆動音が絶えた。
白濁した呼気が、雨に煙る闇に溶けていく。
男は膝をつき、石畳を流れる雨水に血を滴らせた。
「犬型に追われるとは。誰を敵に回した」
答えなかった。答える義理もなかった。
男は雨に濡れた煙草を指先で弾き捨てた。傷口から、新しい血が滲む。
「——仕事だ。助けてほしけりゃ、雇え」
金額を言った。安かった。命の値段にしては、あまりにも。
払わないと、「仕事」という名の壁が消えてしまう気がしたからだ。
「互いを探らない。過去は問わない……それでいいな」
それから二年。
私は一度も礼を言っていない。
カイは煙を吐いた。灰が床に落ちる。
それで終わりだ。
リンは端末を手に取った。
応募条件を読む。必要書類。面接日程。
偽造の難易度を計算する。問題ない。今の私なら通せる。
カイは立ち上がった。
「外を見てくる……この辺りも、少しきな臭くなってきた」
ドアに向かう背中。左肩をかばうように、わずかに傾いで歩いている。
やはり、負傷している。
訊かない。
カイはドアを開けた。湿った風が入ってくる。
振り返らない。
「気をつけろ」
それだけ言って、出ていった。
重い鉄のドアが閉まる音。
リンは一人、残された。
端末の画面が青白く光っている。侍女募集。後宮への切符。
あの男がいる場所への、片道切符かもしれない。
コーヒーを淹れようと思った。
カイがいつも飲む、泥水のような安物のインスタント。
棚を開けて、手が止まった。
プラスチックのコップが一つ、倒れていた。
中身は空だが、位置がずれている。
——揺れたのだ。この部屋が。
私が仮想に潜っている間に、何かが起きた。
爆発か、衝撃か、あるいはカイが壁に叩きつけられた衝撃か。
カイはここで戦った。私を守るために、たった一人で。
震える指先で、コップを元の位置に、元の角度で戻した。
数ミリのズレも許さないように。
こうして形さえ整えてしまえば、何も起きなかったことにできる。
それだけのことだ。それ以上は考えない。
カイの指が、煙草を持つ時、微かに震えていたこと。
ジャケットの背中に、新しい焦げ跡があったこと。
見なかったことにする。
知った瞬間、この美しい
リンはコーヒーの粉を二つのカップに放り込んだ。
お湯を注ぐ。湯気が立ち上る。
カイの席に、泥水のような黒い液体が入ったカップをそっと置いた。戻ってきた頃には冷めているだろうが、あいつも文句は言わないはずだ。
自分のカップを手に取り、黒い液体を見つめる。
黒い水面に、白い衣が揺れた気がした——湯気の向こうで。
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