往事如煙路未闌

 目を開けると、そこは廃墟だった。


 腐りかけの防音材が垂れ下がる、第四階層の元歌房カラオケ店。

 黄ばんだスポンジが天井から内臓のように垂れ下がり、結露した汚水がポタポタとリズムを刻んでいる。


 毎回、違う場所だ。

 同じ接続アクセスポイントからは二度と潜らない。龍華ロンホワの探知網を逃れるための、鉄の掟。

 二度目に座標を取られれば、待っているのは逮捕ではなく、物理的な「消去」だ。


 首の接続端子ジャックを引き抜く。

 神経が軋み、脊髄を冷たい虫が這うような悪寒が走る。

 義眼のオートフォーカスが合うまで、正確に3.2秒。

 現実への再適応リブート


 黴びた繁体字のポスター。『月亮代表我的心』。誰も歌わなくなった古いラブソングが、蛍光灯の残骸に照らされている。

 カウンターには埃の積もったマイク。モニターは割られ、基板が肋骨のように覗いている。

 虛擬歌房VRカラオケが普及して十年。現実の狭い箱の中で歌うなどという行為は、貧乏人さえしなくなった。


 カイが見つけてきた場所だ。

 電源だけは生きていた。水道は死んでいる。

 空気は湿り、カビと埃、それから——微かに、硝煙の匂いがした。


 視線を床に落とす。

 足元に、ドローンの残骸が転がっていた。

 赤い単眼が粉々に砕かれている。蜂のような羽根が二枚、無惨に引きちぎられて壁際に落ちている。

 龍華の偵察型『LH-202-B』。通称「羽虫」。

 その破片に、乾いた血が点々と付着していた。


 ——私が潜っている間に、ここを嗅ぎつけられたか。


 部屋の隅、闇に溶け込むようにして、カイが壁に背を預けていた。

 安物の煙草を咥えている。火は点いていない。


「……死んだかと思ったぞ」


 低い声。少しの間があって、


「——冗談だ」


 リンは身体を起こした。

 全身が鉛のように重い。仮想VR空間での高速演算の負荷が、時間差で肉体に跳ね返ってくる。


 カイは煙草を指先で弄んでいる。ライターには手を伸ばさない。

 目を合わせようとしない。


「収穫は」

防壁ファイアウォール礼法プロトコルが変わってた。前回は杜甫、今回は李白……正面からのハッキングは、当分無理だ」

「それを確かめるためだけに、一人で潜ったと」

「そうだ」


 嘘ではない。だが、すべてでもない。

 換気扇が、油の切れた音を立てて回っている。


「——あの男は」


 カイがポツリと言った。

 白い衣の男。白雲バイユン

 リンは答えなかった。——喉の奥に、白檀の香りが微かに蘇った気がした。

 カイは鼻を鳴らし、短く息を吐いた。それ以上は訊かない。


  ◇ ◆ ◇


 カイの首筋に、真新しい擦り傷があった。

 シャツの襟に滲んだ汗染みと、鉄錆のような赤黒いシミ。

 左肩の下、ジャケットが不自然に膨らんでいる。止血パッチか、あるいは簡易的な包帯か。


 リンは見た。見て、意識的に視線を外した。


 いつもそうだ。

 リンが仮想VRに潜り、安全な電子の海を泳いでいる間、カイはこの薄汚い現実で、私の肉体ハードウェアを守るために戦っている。

 指の火傷。腕の裂傷。脇腹を押さえる仕草。

 一度も説明されたことはないし、一度も訊いたことはない。


 訊かない。カイも言わない。

 互いの過去を探らない。現在いまの傷にも触れない。

 それが契約だ。仕事上の信頼という名の、不可侵条約。


 私が潜っている間、外で何があったか。

 ドローンが何機来たか。龍華の追手がどこまで迫っているか。その傷は、誰につけられたものか。


 訊けば、答えが返ってくる。

 答えが返ってくれば、知ってしまう。

 知ってしまえば——


 だから、訊かない。


 カイが、テーブル代わりの木箱に端末を放り投げた。

 乾いた音がして、画面が青白く光る。


「やつら、侍女を募集してる」


 画面には、けばけばしい繁体字の広告が表示されていた。

 『龍華集団・夢幻後宮部門・侍女職員募集』。


 その下に、安っぽいキャッチコピーが踊っている。

 『あなたの夢を、後宮で叶えませんか?——充実の福利厚生、キャリアアップ支援、完全個室寮完備。龍華があなたの未来を全力でサポートします』


「夢幻後宮の運営スタッフだ。人偶NPCのメンテナンス、イベントの進行補助」


 カイが説明する。


「月給は破格だ。九龍塞の平均年収が、一ヶ月で手に入る」


 破格、というのは嘘ではないだろう。

 龍華は金だけは出す。その代わり、何を取られるかは契約書の隅にも書いていない。魂か、記憶か、それとも尊厳か。


「身元調査あり、だが假牒偽装IDで抜けるレベルだ。面接も仮想……生身の顔を晒す必要はない」


 カイは煙草を指先で弄んだ。


「子曰く、巧言令色少なし仁、だ」


 リンはすぐには答えなかった。換気扇の低い唸りだけが部屋を満たす。

 一拍おいて、冷めた視線をカイへ向けた。


「……意味、分かって言ってるの?」

「さあな。……まあ、お前がこれから行く場所のことだ」


 面接も仮想空間。生身の人間を雇うのに、現実では顔を合わせない。

 徹底した効率化。あるいは、後ろめたいことでもあるのか。


「どこで拾った」

「お前が仮想で遊んでる間に」


 カイは煙草に火をつけた。

 紫煙が上がり、硝煙の匂いを少しだけ誤魔化す。


 リンは画面を見つめた。

 正規ルートでの潜入。内側から入る。防壁を突破する必要がない。堂々と、正面から。


 胸の奥で、白檀の香りが蘇った気がした。

 あの男がいる場所へ。


「——これで入れる」


 リンは呟いた。


「……あり——」


 言葉を飲み込んだ。謝了ありがとう——。

 言ったら、何かが変わる気がした。この絶妙な均衡が、音を立てて崩れる気がした。


「仕事だ」


 カイが先に言った。

 その言葉が、礼を言わせないための壁だと、リンは知っている。

 ぶっきらぼうに。突き放すように。

 最初に会った時も、そう言った。


 二年前。あの路地裏。

 雨の降る夜だった。


 ドローン犬に囲まれていた。

 三匹。赤い単眼が暗闇の中で飢えたように光る。鋼の牙。金属の爪が石畳を削る不快な音。

 壁に背をつけていた。弾は切れ、義肢の右腕はショートして動かなくなっていた。配線が焼けた臭い。自分の身体から煙が出ている。


 三匹が距離を詰める。完全な包囲網。逃げ場はない。

 ここで終わる。ゴミのように、誰にも知られずに。


 そう思った瞬間——暗闇に、煙草の火が見えた。


 男——のちに、カイと名乗る男が、路地の奥から歩いてきた。

 ゆっくりと。散歩でもするように。


 ドローン犬が振り向いた。赤い単眼が、新しい標的を冷徹にロックする。


「犬型三機。推奨弾数、各一発」


 男の懐から、無機質な女の声が響く。


「足りるな」


 煙草を咥えたまま、引き金を引き絞った。

 青い光条が一匹目の単眼を貫通。砕け散ったレンズが雨粒を白く染める。だが鋼の躯体は止まらず、突き出された鉤爪が男の脇腹を浅く抉った。

 

 散る鮮血。二匹目が跳躍した。

 男は躱しきれず、肩口を肉ごと削がれる。千切れた布と血飛沫。

 だが衝撃を殺さず泥水を転がり、跳ね上がった銃口から三発目——光弾が腹部を貫き、噴き出した冷却液が路地を汚した。


「残弾ゼロ」

「知ってる」


 三匹目が首筋を狙って飛びかかる。

 男の靴底が下顎を最短距離で蹴り上げ、折れた鋼の牙が宙を舞った。

 着地を許さず、鈍器めいた藍銃の重い銃身が、犬型の頭蓋を無慈悲に粉砕する。二度、三度。ひしゃげた金属から最後の一花が散り、駆動音が絶えた。


 白濁した呼気が、雨に煙る闇に溶けていく。

 男は膝をつき、石畳を流れる雨水に血を滴らせた。


「犬型に追われるとは。誰を敵に回した」


 答えなかった。答える義理もなかった。


 男は雨に濡れた煙草を指先で弾き捨てた。傷口から、新しい血が滲む。


「——仕事だ。助けてほしけりゃ、雇え」


 金額を言った。安かった。命の値段にしては、あまりにも。

 払わないと、「仕事」という名の壁が消えてしまう気がしたからだ。


「互いを探らない。過去は問わない……それでいいな」


 それから二年。

 私は一度も礼を言っていない。


 カイは煙を吐いた。灰が床に落ちる。

 それで終わりだ。


 リンは端末を手に取った。

 応募条件を読む。必要書類。面接日程。

 偽造の難易度を計算する。問題ない。今の私なら通せる。


 カイは立ち上がった。


「外を見てくる……この辺りも、少しきな臭くなってきた」


 ドアに向かう背中。左肩をかばうように、わずかに傾いで歩いている。

 やはり、負傷している。


 訊かない。


 カイはドアを開けた。湿った風が入ってくる。

 振り返らない。


「気をつけろ」


 それだけ言って、出ていった。


 重い鉄のドアが閉まる音。

 リンは一人、残された。


 端末の画面が青白く光っている。侍女募集。後宮への切符。

 あの男がいる場所への、片道切符かもしれない。


 コーヒーを淹れようと思った。

 カイがいつも飲む、泥水のような安物のインスタント。


 棚を開けて、手が止まった。


 プラスチックのコップが一つ、倒れていた。

 中身は空だが、位置がずれている。


 ——揺れたのだ。この部屋が。


 私が仮想に潜っている間に、何かが起きた。

 爆発か、衝撃か、あるいはカイが壁に叩きつけられた衝撃か。

 カイはここで戦った。私を守るために、たった一人で。


 震える指先で、コップを元の位置に、元の角度で戻した。

 数ミリのズレも許さないように。

 こうして形さえ整えてしまえば、何も起きなかったことにできる。


 それだけのことだ。それ以上は考えない。

 カイの指が、煙草を持つ時、微かに震えていたこと。

 ジャケットの背中に、新しい焦げ跡があったこと。


 見なかったことにする。

 知った瞬間、この美しい均衡バランスが、音を立てて崩れてしまうから。


 リンはコーヒーの粉を二つのカップに放り込んだ。

 お湯を注ぐ。湯気が立ち上る。

 カイの席に、泥水のような黒い液体が入ったカップをそっと置いた。戻ってきた頃には冷めているだろうが、あいつも文句は言わないはずだ。


 自分のカップを手に取り、黒い液体を見つめる。

 黒い水面に、白い衣が揺れた気がした——湯気の向こうで。

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