故紙黃塵照舊殘
リフトの扉が開いた。
第三階層。酸性雨は止んでいたが、空気はまだ湿っていた。配管から水滴が落ちる音。どこかで猫が鳴いている。
壁に背を預けて、カイが煙草を吸っていた。
「……待ってたのか」
「いや」
カイは煙を吐いた。目を合わせない。
「たまたま通りかかった」
嘘だ。でも、追及しない。そういう関係だ。
「婆さん、何か言ってたか」
リンはカイの隣に並んだ。壁は冷たい。背中に湿気が染みる。
「管理者が十五年間変わってない。あと——
カイは眉を寄せた。
「客が
「わからない。あと、本社地下がやたら冷やされているらしい」
「サーバーか?」
「それにしては度が過ぎている、と」
リンは目を閉じた。
あの詩句が、まだ頭にこびりついている。
——相見時難別亦難。
「あの詩」
「詩?」
「あいつが詠んだやつ。あれで私の
カイは煙草を指で弾いた。火花が散る。
「ネットで調べりゃいいだろ」
「偽装はできる。でも——何を調べてるか、
カイは舌打ちした。
「じゃあどうする」
「紙で調べる」
カイが振り向いた。
「紙?」
「古いやり方だ。図書館。本。龍華の目が届かない場所」
カイは煙を吐いた。呆れたような、感心したような顔。
「この街に図書館なんかあったか」
「ある。廃墟だけど、本はまだ残ってる」
リンはリフトの扉に手をかけた。
「古詩にもある。真実はいつも、塵の下に眠っている」
「誰の詩だ」
「……今、私が作った」
◇ ◆ ◇
リフトはここまで来ない。梯子と足場を伝って降りる。錆びた鉄骨。腐った板。一歩間違えれば落ちる。
カイが先を行く。懐中電灯の光が闇を切り裂く。
「こんな場所、よく知ってたな」
リンは答えなかった。
昔、誰かに連れてこられた気がする。記憶の
埃と黴と、古い紙の匂い。
廃墟が見えた。
コンクリートの箱。窓は割れ、壁は落書きだらけ。入口には『公共図書館』の文字が、かろうじて読める。
中に入る。
天井が崩れかけている。床には瓦礫と、散乱した本。棚は倒れ、貸出カードが散らばっている。
今では誰も来ない。だから——龍華の目も届かない。
「漢詩の棚は?」
「奥だ」
なぜか、それだけは確信があった。
二人で瓦礫を越えて進む。懐中電灯の光が、埃を舞い上げる。
棚があった。半分崩れているが、本は残っている。背表紙が黴びて、文字が読みにくい。
『唐詩選』。『李白詩集』。『杜甫全集』。
リンは指で背表紙を辿った。
——李商隠。
見つけた。
本を引き抜く。表紙は湿気でふやけている。ページを開く。黄ばんだ紙。活字。十五年以上前の印刷。
目次を追う。
「無題」——李商隠の詩の多くは、題がない。だから「無題」と呼ばれる。
ページをめくる。
——相見時難別亦難、東風無力百花殘。
あった。
リンは詩を読んだ。声に出さず、唇だけで。
会うのも難しく、別れもまた難しい。
東風に力なく、百花は散る。
春蚕は死ぬまで糸を吐き、
蝋燭は灰になるまで涙を流す。
——別離の詩。いや、もっと深い。永遠に会えない人への、絶望的な恋。
冷却液の脈動が、速くなった。胸の奥が、処理しきれない熱を帯びている。
「何の詩だ」
カイが後ろから覗き込む。
「李商隠。九世紀の詩人。この詩は——」
リンは言葉を切った。
永遠に会えない人への恋。
なぜ、あの男はこの詩を選んだ?
「恋の詩だ」
「恋?」
「会いたくても会えない。別れたくても別れられない。そういう——」
言いかけて、リンは首を振った。
「わからない。なぜこの詩なのか」
カイは肩を竦めた。
「
「……さあな」
本を棚に戻す。
これ以上、ここで分かることはなさそうだ。
「帰るか」
カイが言った。リンは頷きかけて——足を止めた。
義肢の指先が、勝手に動いていた。
棚の奥。瓦礫の下。何か紙が見える。
「待て」
リンは屈み込んだ。瓦礫をどけて、紙を引っ張り出す。
古い新聞だった。黄ばんで、端が破れている。日付は——十五年前。
「新聞?」
カイが懐中電灯を向けた。
紙面の大半は破れて読めない。だが、断片的に文字が見える。
『龍華』——『事故』——
写真もあった。だが、肝心の顔の部分が破れている。残っているのは、葬儀の風景。黒い服の人々。花。棺。
「……十五年前」
リンは呟いた。
「婆さんが言ってた。管理者が十五年間変わってないって」
「偶然か?」
カイの声は低い。
「わからない」
本当にわからなかった。龍華。事故。十五年前。後宮の管理者。
何か——繋がっている気がする。でも、ピースが足りない。
リンは新聞を畳んで、ジャケットの内ポケットに入れた。
「持っていく」
「証拠になるか?」
「わからない。でも——」
カイの懐で、青白い
「接近する熱源、二」
その時だった。
羽音。
微かに、しかし確実に近づいてくる。蜂の群れのような、金属的な唸り。
「伏せろ!」
カイがリンを引き倒した。同時に、天井の穴から光が差し込んだ。
赤い単眼。球形のボディ。四枚の回転翼。
——龍華の警備ドローン。二匹。
「なんで——」
リンの声は途切れた。ここは下層の底だ。龍華の監視網の外のはずだ。なのに——
ドローンが旋回する。二つの単眼がこちらを向いた。スキャン光が交差する。
「逃げるぞ」
カイが囁いた。だがドローンは既に二人を捕捉していた。
警告音。甲高い電子音声。二匹が同時に喋る。
『危險地帶的各位。請放心——危険地帯ニオ住マイノ皆様。龍華ノ保護ドローンガ、アナタヲ安全ナ場所ヘ。Please relax.』
ドローンの腹部が開いた。スタンガンの銃口が露出する。二つ。
——何が保護だ。
カイが動いた。
懐から拳銃を抜く。銀色の銃身に、青白い
「LH-7701-SC、二匹。推奨弾数、各二発」
「そんなにはいらん」
カイは走らなかった。歩いた。二匹のドローンに向かって、まっすぐ。
スタン弾が飛んでくる。カイは首を傾けた。弾が頬を掠める。
歩く。
二匹目が回り込んできた。挟撃。左右から銃口が向く。
「カイ!」
リンが叫んだ。
カイが右を撃った。単眼に直撃。火花が散る。墜落。
反動で身体が左へ流れる。
左のドローン。銃口がこちらを向く。
遅い。
左拳が腹に突き刺さった。
銃把で単眼を砕く。床に落ちる。痙攣。停止。
「二発で十分だったな」
「私は鈍器ではありません」
カイは答えず、銃身の煤を親指で拭った。
「さすが」
リンは呟いた。
義体化していない、生身の人間。センサーの予測を裏切る、不規則で泥臭い動き。
——それでいて、無駄がない。訓練された殺し方だ。
カイは煙草を咥えた。
「旧式二匹で助かった」
リンは落ちたドローンに近づいた。
単眼は砕けている。ボディは焦げて、内部から火花が散っている。完全に死んでいる——はずだった。
スピーカーから、
リンは耳を澄ませた。雑音の奥に、何かがある。声。いや——
詩。
『——春蚕到死絲方盡——』
リンの背筋が凍った。
さっき読んだばかりの詩。李商隠の「無題」。その三句目。
——春蚕は死ぬまで糸を吐く。
壊れたドローンのスピーカーから、詩句が流れている。
「またか」
カイが近づいてきた。
「……あの男だ」
リンは呟いた。
「何かが漏れてる。後宮の外にまで——」
詩句は途切れた。
最後に一瞬だけ、鼻の奥を白檀が撫でた。
「帰るぞ。増援が来る」
カイが言った。リンは頷いた。
図書館を後にしながら、リンは考えていた。
十五年前に、龍華で何があった?
事故、隠蔽。そして——あの白い衣の管理者。
龍華の監視網は、もはや逃げ場のないところまで届いている。
だが、歩くたびに、ポケットに突っ込んだ新聞の切り抜きが、カサリと乾いた音を立てた。
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