第4章:根の国へ(前編)

1

その階段は、どこまでも続いていた。


トゥリッキとペッカが降りているのは、かつて何万人もの人々を地下の大深度へと運んだ長い長いエスカレーターだ。しかし今のトゥリッキの目には、巨大な怪物の喉元へと降りていく一本道のようにしか見えない。頭上遥か彼方にある入り口から差し込む微かな光は、もう届かない。頼りになるのは、トゥリッキの杖の先に取り付けたカンテラの灯りと、ペッカの緑色の瞳が放つ光だけだった。


「……寒い。」


トゥリッキは身震いをして、コートの襟をかき合わせた。ここは地上の冬とは違う種類の寒さに支配されていた。風はなく、空気は淀み、濡れた土と錆びた鉄の匂いが鼻をつく。それは、時間が死んでいる匂いだった。


「気をつけてくれ、トゥリッキ。足元が脆くなっている。」


ペッカが先頭を歩き、巨大な体で安全を確かめながら進んでいく。彼の背中の円盤が、先ほどから低い唸りを上げ、内部で大小の歯車がせわしなく回転していた。地下深くに眠る膨大な量の「何か」に反応しているのだ。


階段の両脇にある壁は、滑らかなコンクリートではなく、掘削されたままの荒々しい岩盤が剥き出しになっていた。戦火が激しくなる中、人々をより深い場所へ逃がすために急ごしらえで作られた地下鉄だ。岩肌には、ドリルで削った生々しい爪痕が残っている。


そしてそこには、奇妙な植物が張り巡らされていた。地上の森から伸びてきた太い根が岩盤を突き破り、天井を覆い尽くしている。そしてその根に絡みつくように、被膜の破れたケーブルから銀色の光ファイバーが溢れ出し、微弱な明滅を繰り返している。有機的な根と、無機質な線が融合し、まるで巨大な神経網のように脈打っていた。トゥリッキには、それがアイラの寝物語にあった「光の管」と「木の根」そのものに思えた。


「ペッカ、壁を見て。」トゥリッキがカンテラを掲げた。「誰かが、岩に何かを書いているわ。」


ゴツゴツとした岩壁の平面を選んで、無数の傷のような文字が刻まれていた。スプレーで殴り書きされたもの、ナイフで削られたもの、中には血で書かれたような黒ずんだ跡もある。


『パーヴォ、シェルターで待ってる。セルマ』『怖い』『へイッキ、これを見たら父さんにメッセージをくれ。』『神様、どうか』


トゥリッキには、それらが古代の呪文のように見えた。けれど、そこに込められた感情の激しさだけは痛いほど伝わってくる。


ペッカはその文字の列を、痛ましげに見つめた。「これは……記録ログだ。最期の時、ここを通った人々の叫びだよ。」


ペッカが壁に手を触れると、指先から微細な火花が散った。「恐怖、混乱、そして祈り。……この壁そのものが、彼らの絶望を吸い込んで記憶しているようだ。」

何百年も前に、この狭い階段を、数え切れないほどの人々が押し寄せたのだろう。生きるために。希望の光があると信じて。


「……行こう、ペッカ。」トゥリッキは声を絞り出した。「この先を見届けなきゃ。」


二人は再び、暗闇の底へと足を向けた。壁のメッセージは下へ行くほど乱れ、やがて言葉にならない叫びのような線だけになっていった。


2

永遠にも思える降下の果てに、二人はペッカの背丈ほどもある巨大な扉に辿り着いた。その表面は苔と蔦で覆われ、片方は向こう側に倒れていた。トゥリッキとペッカは、足元の地面を確かめながら、暗闇の中へと踏み出した。


カンテラの明かりを強くすると、そこは、トゥリッキがこれまでに見たどの場所よりも広い空間だった。


高い天井は闇に溶け込み、そこから無数の木の根がシャンデリアのように垂れ下がっている。かつては眩い照明に照らされ、電子掲示板が明滅していたであろう広大なターミナル駅。その中央に、「鉄の蛇」が横たわっていた。


「……ああ。」


ペッカが、押し殺したような声を漏らす。


それは、かつて彼が守るはずだった「避難用シャトル」だった。流線型の銀色のボディは、当時の技術の粋を集めた美しさを留めている。だが、その先頭車両は無残にもひしゃげ、天井から崩落した巨大な岩盤の下敷きになっていた。その先にあるはずのトンネル――地下シェルターへと続く唯一の道――は、ほぼ完全に塞がれている。


列車は、発車することすらできなかったのだ。


「そんな……。」トゥリッキは言葉を失った。「トンネルが、崩れて……。」


「爆破された跡がある。」ペッカが乾いた声で言った。「……当時の対立勢力が、避難路を断ったのだろう。」


二人は、壊れた列車の傍らで、広いプラットホームを埋め尽くしているものに目が留まった。それは、不規則に盛り上がった無数の小山だった。


ボロボロになったスーツケース、色褪せたぬいぐるみ、風化した衣服。それらが、灰のような塵と共に、波打つように折り重なっている。トンネルが崩落し、背後の扉も閉ざされ、行き場を失ったまま寒さと飢えに倒れた人々の、生きた証だった。


ペッカはその場に膝をついた。重い音が響き、灰色の埃が舞い上がる。


「私は……。」巨人の肩が震えた。「あの日、私は地上の入り口で、この地下から伝わる爆発の振動を感知していた。……駅長の生体反応が消え、シャトルが破壊されたことも、センサーは捉えていた。」


ペッカの脳裏に、当時の指令が蘇る。『最後の避難民が到着するまで、駅の入り口を守れ。』


「だが、私には『ここへ降りて救助する』権限がなかった。命令通り、来るはずのない避難民を待って、地上で立ち尽くすことしかできなかったのだ。……彼らがここで、瓦礫の下で息絶えていくのを、ただ記録し続けていただけだった。」


巨人は深くうなだれた。「なんという……無力だ。」


ペッカが地面を拳で叩くと、硬い床に亀裂が入った。トゥリッキは、かける言葉が見つからなかった。彼は知っていたのだ。この場所で起きた惨劇を、リアルタイムで感じながら、命令に縛られて一歩も動けずにいたのだ。その孤独と自責の念は、計り知れない。


それでも、トゥリッキは彼に歩み寄った。そして、冷たい金属が剥き出した肩に、自分の小さな手を押し当てた。


「ペッカ、自分を責めないで。」トゥリッキは静かに、けれど精一杯力強く言った。「あなたは命令を守るしかなかった。……でもね、だからこそ、あなたは生き残ったのよ。」


「生き残った……?」


「そうよ。もしあの時、命令を破って降りてきていたら、あなたも一緒に瓦礫の下敷きになっていたかもしれない。そうしたら、誰がこの人たちのことを覚えているの?誰がこの人たちの魂を案内してあげるの?」


彼女は、傍らの灰色の山の一つに――おそらく、子供を抱きしめたまま眠りについた母親の跡に――そっと帽子を取って一礼した。


「あなたが今日まで『時』を守ってくれたから、私たちはここに来られた。この人たちの物語を、終わらせてあげることができるの。」


ペッカはしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと顔を上げた。緑色の瞳から、オイルのような涙が一筋、頬を伝って落ちた。


「……そうか。私は、今日この日のために、生き恥を晒して……。」


「恥なんかじゃないわ。……誇り高い『守り手』よ。」


ペッカは立ち上がった。その目には、悲しみと共に、新たな決意の光が宿っていた。


「……ありがとう、トゥリッキ。行こう。この墓所の、さらに奥深くに。」


ペッカの視線の先、崩れたトンネルの脇に、巨大な木の根が集束して、瘤のように盛り上がっている場所があった。そこから、岩盤を揺るがすような鼓動が重く響いている。根の元は、崩れた岩のさらに奥の闇の中へと消えていた。


トゥリッキの心に、壊れた街、岩盤に刻まれたメッセージ、列車に乗ることのできなかった人達、ペッカの孤独と悲しみが次々と浮かんだ。


(どうして……どうしてこんなことが起きたんだろう……。)


小さな魔女は、杖を握りしめると、カンテラの明かりが届かない暗闇に向けて一歩踏み出した。


3

カンテラの明かりだけが頼りの暗闇を、二人は言葉を発することなく降りていった。かつてシャトルが走っていたトンネルは、崩落した瓦礫で荒れ果てていた。行く手を阻む巨岩があれば、ペッカがその怪力で砕き、脇へと退かして道を作る。


地底の奥底からは、重い鼓動のような振動音が絶えず響いてくる。だが、トゥリッキの耳はその奥に混ざる、別の音を捉えていた。ガラスを爪で引っ掻くような、神経を逆撫でする高周波のノイズ。森の家を襲った「黒いムスタルオステ」が発していた、あの音だ。


(怖い……。)


トゥリッキは身震いし、脚がすくむ。


(でも……。)


ターミナルの光景が胸の中で疼いた。かつてこの街で、何千人もの人々が助けを求めて逃げ惑い、そして絶望の中で命を落とした。森に囲まれて静かに暮らしていた彼女には想像もできないような出来事が、はるか昔にここで起きたのだ。そして、きっと他の街でも。


(思いを残したまま、その人たちの魂はどこを彷徨っているんだろう。)


お伽噺の通り、「根の国」の木の根に絡め取られて、今も暗闇の中で泣いているのだろうか。小さな魔女の胸を、行き場のない思いがとめどなく巡った。


やがて、完全に崩落した岩盤が、トンネルを塞ぐように立ちはだかった。ここが、行き止まりか。ペッカが無言で岩に手をかけ、強引に砕こうとする。その時、トゥリッキはふと足を止めた。あの耳障りなノイズが、正面の瓦礫の山からではなく、横の壁から聴こえてくる気がしたのだ。


「ペッカ、待って。」トゥリッキはペッカの腕を引いた。「あの音が、壁の中から聴こえてくる気がするの。調べてみようよ。」


「壁から……?」


ペッカは怪訝そうにしたが、振り上げた腕を空中で止めた。トゥリッキは冷たい岩肌に耳を押し当て、神経を集中させた。重苦しい鼓動音がこだまする中に、針の穴のような隙間を探す。微かに流れる風の音、岩盤からしたたる水滴の音、そして――。


「……ここ。」


一部だけ、ほんの僅かだが、ノイズが鋭く響く場所があった。


「ペッカ、ここだよ!この奥から聴こえてくる!」


ペッカが頷き、巨大な拳を握りしめた。「トゥリッキ、下がっていて。」彼が腕を振りかぶり、岩盤へと叩きつける。硬質な衝撃音が暗闇に反響し、壁に亀裂が走る。さらに数度、重い打撃が加えられると、表面の岩が砂煙を上げて崩れ落ち、操作盤の残骸のような破片が散らばった。そして、その奥に、半ば腐食した金属製の扉らしきものが現れた。


「これは……?」ペッカが驚きの声を上げる。「私のデータベースには、こんな扉の記録はないが……。」


ペッカは金属の表面に手を押し当てて力を込めたが、微動だにしない。巨人は数歩下がると、渾身の力を込めて肩から体当たりをした。耳をつんざくような金属の軋みと共に、分厚い扉が悲鳴を上げる。やがて、体当たりを繰り返すうちに、飴細工のように歪んだ金属板と岩盤の間に、二人が通れるほどの隙間が生まれた。


そこから漂ってきたのは、氷のように冷たく、淀んだ空気だった。


「……行こう。」トゥリッキはカンテラを掲げた。


二人は隙間をすり抜け、その奥へと足を踏み入れた。そこは、ペッカの巨体がようやく通れるほどの、狭く急勾配な通路だった。壁はそれまでの荒々しい岩盤とは打って変わり、磨き上げられた鏡のような無機質な滑らかさを持っていたが、あちこちに亀裂が走り、そこから大小無数の木の根が生え出していた。それらの根はまるで血管のように脈打ちながら、通路のさらに奥、深い闇の底へと伸びている。


「足元に気をつけて。」ペッカは少女をかばうように巨体を屈め、センサーの感度を最大にして慎重に歩を進めた。


トゥリッキとペッカは、度々根に足を取られながら、急な坂を降りていった。地下鉄駅のエスカレーターよりも遥かに長い時間と距離を、二人は進み続けた。今が昼なのか、夜なのか、トゥリッキにはもう分からなかった。耳障りな不協和音のようなノイズは次第に強くなり、空気は密度を増して肌にまとわりついた。

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トゥリッキとペッカ 清水智樹 @tomokishimizu

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