第3章:錆びた都市

1

森の深奥へ進むにつれ、木々の隙間から見える景色は、トゥリッキの知る「自然」とは異なる様相を呈し始めた。


朝日が、低い角度から氷柱のように差し込んでくる。その光に照らされているのは、垂直に切り立った灰色の崖だ。いや、それは崖ではなく、巨大な「四角い氷山」のように並ぶ、石とガラスの建築群だった。かつては機能的で洗練されていたであろうその直線的なフォルムも、今はひび割れ、隙間から逞しい白樺や松が枝を伸ばしている。


「……高い。」


トゥリッキは帽子を押さえながら、その威容を見上げた。「村の長老杉よりも、ずっと高いわ。」


「あれは『集合住宅アスント』と呼ばれていたものだよ。」


ペッカが静かに教えてくれた。彼は懐かしむように、雪と苔に覆われた花崗岩の壁に太い指を這わせた。「かつて、この壁の内側では、何千もの人々が暖炉を囲み、珈琲を飲み、長い冬を過ごしていた。……今はもう、風と鳥たちの住処だが。」


二人が歩いているのは、かつて丘の上から広場へと続く大通りだった場所だ。灰色の路面は大部分が砕け、雪を被ったコケモモやベリーの低木が、冬の淡い陽光を受けて佇んでいた。


雪の下には、丸みを帯びた石畳の感触がある。道の両脇には、路面電車ラティッカの残骸が、長い冬眠についた芋虫のように横たわっていた。その塗装は剥げ落ちているが、どこか愛嬌のある形をしている。


トゥリッキは足を止めると、師アイラから預かった羊皮紙の地図を広げた。古びた紙には、この都市の区画が不思議な線で描かれている。その中央付近、水辺の近くに、角ばった文字で「M」と記されていた。


「ねえ、ペッカ。この『M』のマークは何だと思う?何かの魔法の紋章かしら。」


ペッカはその文字を覗き込むと、緑色の瞳を細めた。


「いや。それは『地下鉄メトロ』の標識だ。この地面の下を走っていた、巨大な鉄の蛇のような乗り物だよ。」



「地面の下を走る蛇?」


「そうだ。昔の人々は、太陽の下を歩くよりも、地下のトンネルを風のように駆けることを好んだ。朝も、昼も、夜も。何万という人々が、一分一秒を惜しんで、その箱に詰め込まれて運ばれていったのだ。」


トゥリッキは想像してみた。暗い土の中を、鉄の箱に乗って急ぐ人々。森の恵みに感謝し、太陽の傾きに合わせてゆっくりと暮らす自分たちの生活とは、まるで違う。でも、彼らも自分と同じ人間だったはずだ。美味しいものを食べれば笑い、悲しいことがあれば泣いたはずだ。それなのに、どうしてそんなに急ぐ必要があったのだろう。


「……地下、か。」


トゥリッキは地図上の「M」の文字を指でなぞりながら、ふと、幼い頃にアイラから聞かされた寝物語を思い出した。それは『根の国』というお話だった。


――森のずっと奥深く、遠い昔に栄えた都市の、そのまた深い地下に、冷たく広大な空間がある。


そこには、都市から降りてきた無数の「光の管」と、数え切れないほどの「木の根」が集まっている。光の管は細いものから太いものまであり、それらが木の根と複雑に絡み合い、もつれ合い、空間の底で「母なる木」と呼ばれる巨大な球体を作っているのだ。


人が強い思いを残したまま死ぬと、その人の記憶と魂は、光の管と根っこに絡め取られる。そして、巨大な「母なる木」の中に閉じ込められ、永久とこしえにその中から出られない。


だから『根の国』では、帰る場所を失った人々の思いの残滓が、常にこだましているのだ――。


まだ小さかったトゥリッキは、その話を聞いた時、あまりの恐ろしさと悲しさに、声を上げて泣き出してしまった。暗い地下で、誰にも知られずに絡め取られ、永遠に出られない魂たち。その冷たさが、まるで自分のことのように感じられたからだ。


それ以来、アイラはその話を二度としなかった。けれど、その物語はトゥリッキの心の奥底に、冷たい氷の針のように残り続けていた。


(光の管と、木の根……。ペッカが言っていた、地下を走る鉄の蛇……。)


トゥリッキの中で、お伽話と現実が繋がった気がした。森で起きた異変の原因がこの朽ち果てた都市にあるのなら、それはきっと、あの物語に出てくる「母なる木」が関わっているのではないだろうか。


「ペッカ。私たち、この『M』の場所へ行きましょう。」


トゥリッキは顔を上げて言った。「きっとそこが、お師匠様が言っていた『根の国』への入り口よ。」


「根の国……。なるほど、魔女殿らしい表現だ。」


ペッカは重々しく頷いた。「ああ、行こう。崩れていなければ、そこには確かに、巨大な空洞があるはずだ。」


2

空には雪雲が重く垂れ込めていた。二人はさらに奥へ進み、坂を降りきると、視界が一気に開けた。


そこは、凍りついた入り江に面した、広大な市場の跡地だった。そのすぐ横には、分厚い氷と雪に覆われた湾が白い平原となって広がり、雪ぼこりが対岸の木立を霞ませていた。この広場の向こう、かつて公園だった場所には、空を突き刺す一本の「銀色の針」が聳え立っていた。鉄骨が剥き出しになった無骨な塔ではない。曇りガラスのような白い金属で覆われた、シンプルで美しい尖塔だ。それは周囲の雪景色に溶け込みながらも、人間が天を目指した意思の強さを静かに主張していた。


「あれは……かつての通信塔。北の空へ、遠い星へ声を届けるための指先だ。無傷で残っていたとは……。」


ペッカが呟く。広場から塔の足元に向けて歩き出すと、空気がふっと変わった。周囲の森は深い雪に閉ざされているのに、ここだけ、空気が肌を刺すように帯電し、石畳の地面が露出していたのだ。


そして、そこに「彼ら」がいた。


『……寒いね。……でも、空は綺麗だ。……』『……バスが、遅れているみたいだ。……』


半透明の光の影たちが、石畳の上を行き交っている。厚手のコートを着て白い息を吐く老人、大きなケースを背負った音楽家、雪玉を作って遊ぶ子供たち。


彼らは生きている人間ではない。この場所に残る強力な磁場が、何百年も昔の日常を記録し、再生し続けている「ホログラムの残響」だ。


「……懐かしい。だが……。」


ペッカが悲痛な声を漏らした。「ここの磁場が、過去の時間を凍結させているようだ。彼らは永遠に、あの冬の日に生きている。」


トゥリッキは、その光景に見入っていた。彼らは穏やかだ。誰も争っていないし、誰も泣いていない。けれど、雪玉を投げる子供の手から、決して雪玉が離れることはない。


「……かわいそう。」


トゥリッキは呟き、背中の銀の網を構えた。「時の檻に閉じ込められてる。還してあげなきゃ。」


彼女が網を振ろうとした、その時だった。ペッカの大きな手が、トゥリッキの前に立ちはだかった。


「待ってくれ、トゥリッキ。」


「どうして?放っておいたら、あの人達はいつまでもここから出られないよ。」


ペッカは、ホログラムの老人――彼にとっては、かつて守るべき対象だった市民の姿――をじっと見つめていた。


「だが……これは『記憶』だ。彼らがここに生きていたという証だ。君がその網で捕まえれば、この光景は二度と戻らない。……それは、歴史を消すことになりはしないか?」ペッカの声は震えていた。


彼は「時の守り手」だ。彼の任務は、過去を保存すること。だからこそ、たとえ幻影であっても、それを消去することに抵抗があるのだ。


トゥリッキは網を下ろし、ペッカの大きな顔を見上げた。


「ペッカ、聞いて。」トゥリッキは諭すように、静かに言った。「お師匠様は言ってたわ。流れない水は腐るし、終わらない冬は死と同じだって。……思い出は大切だけど、凍らせておくだけじゃダメなの。」


彼女は、動きの止まったホログラムたちを指差した。「見て。あの人たちの光、ずっと震えてる。……『進みたい』って言ってる。」


ペッカはハッとして、ホログラムを凝視した。彼の高度なセンサーが、映像データの劣化と、そこに含まれる微細なエラーノイズを検知する。それは確かに、終わりの無い繰り返しに摩耗し、悲鳴を上げているデータの軋みだった。


「……そうか。……私は、自分の寂しさを埋めるために、彼らをこの寒空に縛り付けておきたいだけだったのかもしれない。」


ペッカは力なく腕を下ろした。彼は膝をつき、トゥリッキに視線を合わせると、深く頭を垂れた。


「……頼みます、魔女殿。彼らに、春を。」


「うん。任せて。」


トゥリッキは踏み込み、銀の網を風をすくうように大きく振るった。


『……アリ……ガ……。』


光の粒子が舞い上がる。ホログラムたちは、網に触れると同時に、縛めから解き放たれたように拡散し、冬の空へと吸い込まれていった。オーロラの一部となって、彼らは新しい旅へ出たのだ。


3

広場が静寂を取り戻したのも束の間だった。地面の底から、腹に響くような不快な振動が伝わってきた。


「何かが来る!」


トゥリッキが叫ぶと同時に、広場の隅にある鉄の蓋が弾け飛び、そこから漆黒の「泥」が噴き出した。森の家で襲ってきたあの「黒い錆」《ムスタルオステ》だ。だが、今度は量が違う。


泥は意思を持った大蛇のように鎌首をもたげると、先ほどまでホログラムが映っていた空間――残留データが漂っていた場所――を、静寂で埋め尽くそうと殺到した。


「『黒い錆』……。データの残滓を嗅ぎつけて来たか。」


ペッカが即座に反応した。彼は近くにあった花崗岩のベンチを軽々と引き抜き、それを盾のように構えて黒い泥を受け止めた。


泥が触れた瞬間、ペッカの体から発せられる高熱によって、焼け焦げるような音と共にその一部が蒸発する。


「トゥリッキ、下がっていてくれ。こいつらは飢えている。」


「でも、このままじゃペッカが……。」


黒い泥は、倒しても倒しても、石畳の隙間から湧き出してくる。それだけではない。建物の影から、下水道の格子から、次々と黒い影が滲み出し、二人を取り囲んでいく。その数は、森で見た時の比ではなかった。ここはかつての大都市だ。標的も、それに群がる捕食者も、桁違いに多い。


ペッカが苦悶の声を漏らし、膝をついた。盾にしていたベンチが、黒い泥に触れた端から急速に風化し、砂となって崩れ落ちる。退路はない。四方八方を、飢えた黒い波に塞がれている。


「万事休すか……。だがトゥリッキ、君だけは守らなくては。」


ペッカはトゥリッキを抱え込むように抱き上げた。


その時だった。トゥリッキのポケットの中で、羊皮紙の地図が急激に熱を帯びた。


「熱っ。」


トゥリッキが慌ててポケットを押さえると、地図を通して強烈な光が漏れ出した。地図に織り込まれた銀色の結晶が、地下からの呼び声に共鳴したのだろうか。その光は、広場の一角にある、崩れかけた建物をスポットライトのように照らし出した。


そこには、錆びて傾いた、くすんだオレンジ色の看板があった。雪と汚れにまみれているが、そこには確かに、地図と同じ角ばった「M」の文字が書かれている。そしてそのすぐ横には、崩れかかった門が、ぽっかりと口を開けていた。


「あそこよ!」トゥリッキが叫ぶ。


門の中は漆黒の闇。そこからは、地上の冬よりもさらに冷たく、死の匂いのする冷気が漂い出ているようだった。あの中が安全だとは、とても思えない。むしろ、自分から怪物の腹の中へ飛び込むような恐ろしさを感じる。けれど、ここにとどまれば黒い泥に飲み込まれて命はない。


「ペッカ、あそこへ逃げ込むしかないわ!」


「地下鉄か……。しかし、あそこは……。」


ペッカもまた、その穴の不吉さを感じ取っているようだった。だが、迫り来る黒い波を見て、覚悟を決めた。


「ええい、ままよ。しっかり掴まっていてくれ!」


ペッカはトゥリッキを自分の肩に乗せて、走り出した。その足音は、かつてこの都市を走っていた重厚な列車のように力強く、大地を揺るがした。黒い泥が波となって押し寄せるが、ペッカは残った力を振り絞り、裂帛の気合いと共に強引に突破する。


二人は、崩れかけた石造りの入り口へと飛び込んだ。黒い泥は、入り口を取り囲むように波打ち、しばらく蠢いていたが、やがて砂礫が擦れるような不快な音を立てながら退いていった。


​狭い駅舎の中は、崩れた天井の瓦礫で半ば埋もれていた。苔むした床には、もはや機能を失って久しい「乗車コード読み取り端末」が、ひび割れた敷石の間に転がっている。


​トゥリッキとペッカは、瓦礫の隙間から差し込む弱々しい光を頼りに、建物の奥へと進んだ。すると、広い空洞が現れ、その底へ向かって長いエスカレーターが伸びていた。


それはトゥリッキが知っている階段とはまるで違っていた。あちこちが壊れ、赤錆に覆われ、ステップの隙間からは無数の木の根や蔦が絡みつき、まるで血管のように脈打っている。機械なのか植物なのか、それとも生き物なのか。動かなくなって久しいその鉄の階段は、一切の光が届かない暗闇の底へと吸い込まれていた。


「……しっかり捕まっていて。」


ペッカの声が、洞窟に反響する。二人は、黒い泥の追撃を逃れ、その冷たく暗い「根の国」への階段を、一歩ずつ降りていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る