第8話…北海道・千歳の一ヶ月 ――牛舎の匂いと、あの夏の朝四時半――


三十五年前の夏、私は高校生だった。

今振り返れば、あの頃の自分は、体力も覚悟も、まだ半分しか持っていなかったと思う。それでも、北海道へ向かう列車の中で、胸の奥にあったのは、不安よりも期待だった。

行き先は北海道・千歳市。

亀●牧場という、乳牛三百頭を抱える牧場での一ヶ月研修だった。

■ 夜明け前の起床

酪農家の朝は早い、という言葉は知識としては知っていた。

だが、それを身体で理解するのに、時間はかからなかった。

午前四時半。

目覚まし時計の音で起きるというより、暗闇の中で身体を引き剥がされる感覚だった。顔を洗い、作業着に着替える。眠気は完全には取れない。だが、牛舎の方から聞こえてくる低い鳴き声が、「もう始まっている」と教えてくれる。

午前五時、作業開始。

まずは餌やり。

配合飼料を運び、牛たちの首輪を固定する。逃げないように、しかし雑には扱えない。牛は大きいが、驚くほど繊細だ。

北海道の酪農では、パイプラインミルカーを使う。

四本の真空の筒を、牛のお乳に取り付けると、ゴォ…という低い音とともに搾乳が始まる。搾られた乳はパイプを通ってタンクへ流れていく。

ここで一番気を使うのが乳房炎だ。

一頭でも異常があれば、その日の乳はすべて駄目になる。

搾り残しがないか、乳の状態はどうか、経験の浅い私は、先輩の動きを必死で真似た。

搾乳と同時に、次の牛の乳房を拭く。

温かいタオルで丁寧に汚れを落とす。

最初に出る乳は捨てる。

教科書で読んだ知識が、ここでは一瞬の判断になる。

この作業を、百頭以上。

朝だけで三時間。

気づけば朝八時近くになっていた。

■ 朝食と、短い休息

すべてが終わると、ようやく朝食だ。

「ちゃんと食べなきゃ、仕事にならないぞ」

そう言われ、山盛りのご飯をかき込む。

八時半から九時までのわずかな休憩。

洗濯をする者、部屋を掃除する者、黙って横になる者。

誰も多くは語らない。身体が次の作業を理解しているからだ。

■ 地平線までの草取り

九時、再び作業開始。

多くの日は、畑の草抜きだった。

北海道の畑は、広い。

「広い」という言葉では足りない。

地平線が見えるのだ。

一列が終わったと思った瞬間、同じ距離の列がまだ続いている。

行くだけで午前中が終わる畑もあった。

機械が入らない場所では、すべて手作業だ。

十一時半、子牛へのほ乳。

小さな口が必死に乳を飲む姿は、疲れた身体に少しだけ優しかった。

■ 昼と午後、そしておやつの時間

昼食をしっかり食べ、午後一時までは自由時間。

昼寝をする者、洗濯物を取り込む者、話をする者。

午後の作業は午前と同じか、天候次第で変わる。

雨の日は牛舎の補修。

錆を落とし、ペンキを塗り、蜘蛛の巣を取り、藁を整える。

派手さはないが、どれも欠かせない仕事だ。

三時、十分間の休憩。

おやつは搾りたての牛乳を温め、冷やしたものとパン。

あの味は、今でも忘れない。

■ 夕方の搾乳、そして夜

午後五時、再び搾乳。

朝と同じ作業を、疲れた身体で繰り返す。

終わる頃には夜八時近く。

一日の労働時間、十五時間。

子牛が生まれる時は、寝ない夜もある。

それが、亀●牧場の日常だった。

■ 旅の記憶

研修の始まりは、長い旅だった。

香川県高松築港から宇高連絡船で宇野へ。

岡山から新幹線で東京へ。

当時は瀬戸大橋もなく、今よりずっと時間がかかった。上野から夜行列車で青森へ。

ブルートレインの揺れの中で眠り、朝四時に目を覚ます。

青森の寒さに驚き、青函連絡船で四時間。

函館から北斗星で、ようやく長沼町へ。

身体は揺れ、心は高鳴っていた。

帰りは洞爺湖温泉で一泊。

旅の終わりに、ようやく現実に戻った気がした。現在ではあり得ないルートだと思っています。多分飛行機になるでしょう!

■ 一番大変だったこと

すべてが大変だったが、草刈りと牧草運びは別格だった。乾燥牧草をキューブ状に固め、トラックに積む。一つ約十キロ。

休みなく運び続けると、握力が消えていく。

だが4〜5日で終わり、その日の夜はご馳走だった。

■ そして、楽しかったこと

一番楽しかったのは、人だった。

高校時代の亀●牧場の人たちは、優しく、厳しく、温かかった。住み込みの従業員、同じ研修生、三歳上のお姉さん、十五歳上のお兄さん。

夜は話をし、花火をし、ギターを弾いた。

仕事と生活が、自然に繋がっていた。

楽しかった夜のジンギスカン。

笑い声と煙の中で、「終わってほしくない」と思った。

■ 今、思うこと

酪農家の仕事は、本当に大変だ。

だが、あれほど生きている実感を持てた日々はない。牛乳を無駄にしない。乳製品を大切にする。それは、あの一ヶ月が私に残した、確かな約束だ。人生に行き詰まったら、北海道の牧場で働いてみるといい。きっと、世界の見え方が変わる。あの夏の朝四時半の空気は、

今も、私の中に残っている。


………あとがき


最近、色々な食品の値上げラッシュで疲弊して居る方々も居るでしょう。でも考えてもみて下さい。無から生まれるお金よりも食品の方が値打ちある事自体がおかしいと!!


PS……お米農家や酪農家の方々こそ疲弊して居ます。

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北海道酪農家住み込み研修記 清ピン @kiyotani

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