第5話……研修日記【白い息の向こう側】

スーパーの乳製品売り場で、足が止まった。

 特売の牛乳パックが、棚いっぱいに並んでいる。

 「北海道産」

 その文字を見た瞬間、

 胸の奥で、何かがふっと動いた。

 もう三十五年も前のことだ。

 それなのに、匂いも、音も、空の色も、はっきりと思い出せる。

 ――四時半の朝。

 ――牛舎の低い息づかい。

 ――白い息が、闇に溶けていく時間。

 僕は、牛乳を一パック手に取り、カゴに入れた。

1 思い出は、突然やって来る

 若い頃は、未来のことで頭がいっぱいだった。

 歳を重ねると、ふとした瞬間に過去が顔を出す。

 北海道の牧場で過ごした一ヶ月。

 人生で一番汗をかき、一番よく笑った時間。

 あれがなければ、

 今の僕は、たぶん少し違っていた。

2 四時半の世界へ

 高校生だった僕は、香川県から北海道へ向かった。

 連絡船、新幹線、夜行列車、青函連絡船。

 移動だけで二日。

 今なら考えられない旅だった。

 牧場に着いたとき、

 空気の冷たさに驚いた。

 九月の北海道は、もう秋だった。

 「一ヶ月、よろしくお願いします」

 そう言った僕に、

 農家のお父さんは、少し照れたように笑った。

 「若いのが来ると、牛も喜ぶ」

 本気か冗談か分からないその言葉が、嬉しかった。

3 楽しい、という感情

 酪農は、きつい。

 それは間違いない。

 朝は早く、夜は遅い。

 身体中が痛くなる。

 それでも、

 「楽しかった」と言えるのはなぜだろう。

 たぶん――

 誰かと一緒だったからだ。

4 仲間がいるという奇跡

 同じ研修生。

 年上の従業員さん。

 農家の家族。

 最初はよそよそしかった関係が、

 日を追うごとに、少しずつ近づいていく。

 「今日、搾乳な」

 その一言だけで、役割が分かる。

 言葉は少なくても、通じる感覚があった。

 失敗すると、

 怒られるより、笑われた。

 それが、ありがたかった。

5 午後三時の魔法

 今でも、はっきり覚えている。

 午後三時十分。

 たった十分の休憩。

 搾りたての牛乳を温めて、冷やす。

 パンと一緒に配られる。

 一口飲むと、

 身体の奥まで、甘さが染み込んだ。

 あの味は、

 今でも、どんな高級牛乳より美味しい。

6 夜という贈り物

 仕事が終わった夜は、別の時間だった。

 花火。

 ギター。

 どうでもいい話。

 三つ上のお姉さんが、

 星空を見上げて言った。

 「北海道の空、近いよね」

 その言葉に、誰も反論しなかった。

 確かに、

 空は近かった。

 青春も、近かった。

7 終わりは、音もなく

 最後の夜のジンギスカン。

 煙と笑い声。

 「もう終わりか」

 誰かが言い、

 皆、黙った。

 楽しい時間ほど、

 終わりは静かだ。

8 帰り道の揺れ

 長い帰り道。

 列車と船に揺られ、

 身体が、ずっと揺れていた。

 それは、疲れだけじゃない。

 心が、

 まだ北海道にあったからだ。

9 今の僕へ

 牛乳パックを冷蔵庫に入れる。

 コップに注ぐ。

 一口飲む。

 あの味ではない。

 でも、悪くない。

 酪農家の人たちの日常の上に、

 この一杯がある。

 そう思えるようになったのは、

 あの夏のおかげだ。

10 青春は、消えない

 青春は、

 過ぎ去るものだと思っていた。

 でも、違った。

 それは、

 人生の奥に、静かに残り続ける。

 四時半の白い息。

 午後三時の甘い牛乳。

 夜空に消えた花火。

 あれは、

 確かに僕の中にある。

 そしてこれからも、

 きっと、消えない。

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