第3話…連作短編 「北海道研修日記・四時半の白い息」

【四時半の牛舎】

 目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。

 牛舎から聞こえる低い鳴き声が、朝を告げている。

 


……朝、四時二十分。

 窓の外は薄暗く、草原には霧が流れていた。

 作業着に着替え、冷たい水で顔を洗うと、一気に現実に引き戻される。

 

ここは北海道、千歳近郊の亀●牧場。

 香川から丸二日かけて辿り着いた場所だ。

 

五時、作業開始。

 三百頭の牛。

 そのうち百頭が搾乳牛。

 パイプラインミルカーの音が、牛舎に規則正しく響く。

 真空の筒を乳房に取り付けるたび、少しだけ緊張した。

 「焦るな。牛は逃げん」

 農家のお父さんが、背中越しに言う。

 その声には、不思議な安心感があった。

 乳房を温かいタオルで拭き、最初の乳を捨てる。

 百回、同じ動作を繰り返す。

 腕は重く、腰は痛む。

 それでも、途中で投げ出したくはならなかった。

 なぜかは分からない。

 ただ、この場所では「逃げる」という選択肢が最初から存在しなかった。

 朝食は八時。

 湯気の立つご飯と味噌汁が、信じられないほど美味しかった。

 「若いんだから、もっと食え」

 そう言われ、茶碗はすぐに山盛りになる。

 午前は畑作業。

 地平線まで続く草原に、思わず笑ってしまった。

 「広すぎやろ……」

 同じ研修生が呟く。

 僕たちは顔を見合わせ、何も言わずに草を抜き始めた。

 この日、僕は知った。

 北海道の朝は、厳しくて、でも少し優しい。

 午後三時十分。

 作業の合間の、たった十分の休憩。

 搾りたての牛乳を火にかけ、冷やす。

 紙コップに注がれたそれは、白く、少し甘い匂いがした。

 「これ飲むと、生き返るな」

 誰かが言う。

 全員が黙って頷いた。

 午後の作業は、牧草集めだった。

 乾燥した牧草をキューブ状にまとめ、それをトラックに積む。

 一つ、約十キロ。

 休みなく、ただ運ぶ。

 指先の感覚が、少しずつ消えていく。

 「もう無理……」

 そう言いかけた時、

 三つ上のお姉さんが笑った。

 「大丈夫、あと半分」

 その「あと半分」が一番きついと、僕はもう知っていた。

 それでも、不思議と頑張れた。

 夕方、作業が終わると、空はオレンジ色に染まっていた。

 牛舎の影が長く伸びる。

 夜、花火をした。

 線香花火の小さな光が、風に揺れる。

 「落ちるまでな」

 誰かが言い、全員で黙る。

 パチ、パチ、と音を立てて、火は消えた。

 その瞬間、

 なぜか胸が少しだけ締めつけられた。

 この時間が、いつか終わると分かっていたからだ。


夏の終わり、ジンギスカン

 

最終日の夜。

 ジンギスカンの煙が、牧場に広がった。

 肉を焼き、笑い、話す。

 一ヶ月前には他人だった人たちが、今は妙に近い。

 「また来いよ」

 農家のお父さんが言う。

 僕は、うまく返事ができなかった。

 翌朝、荷物を持って牛舎を振り返る。

 牛たちは、いつも通りこちらを見ていた。

 「じゃあな」

 声には出さず、そう言った。

 帰りの長い旅。

 船と列車に揺られながら、思う。

 あの一ヶ月で、

 僕は少しだけ大人になったのかもしれない。

 四時半の白い息。

 午後三時の甘い牛乳。

 夜空に消えた花火。

 北海道の夏は、短くて、濃かった。

 ――あれは確かに、

 僕の青春だった。

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