第2話…短編小説風【四時半の白い息、夏の終わり】
北海道の朝は、静かすぎて怖い。
目覚ましが鳴る前、牛舎の低い息づかいで目が覚める。窓の外はまだ暗く、白い霧が草原を覆っている。
四時二十分。
作業着に袖を通すと、昨日の疲れがまだ身体の奥に残っていた。だが、それを嫌だとは思わなくなっていた。ここに来て、二週間が過ぎていた。
牛舎へ向かうと、三百頭の牛たちが一斉にこちらを見た。
その視線に、最初の頃は圧倒されていたが、今では「おはよう」と心の中で声をかける余裕があった。
五時、作業開始。
「今日、搾乳な」
先輩が短く言う。
頷いて、ミルカーの準備をする。
パイプラインミルカーの音が、牛舎に規則正しく響く。
四本の筒を乳房につけると、白い乳が吸い上げられていく。その流れを見ていると、不思議と心が落ち着いた。
乳房炎だけは絶対に見逃せない。
先輩が言った言葉が、頭から離れない。
「一頭のミスが、全部を無駄にする」
責任の重さを、初めて実感した場所だった。
搾乳前の乳房を、温かいタオルで拭く。
その手つきは、もうぎこちなくはなかった。
最初の乳を捨て、次の牛へ。
百頭分の繰り返し。
腕は痺れ、腰は悲鳴を上げていた。
それでも、隣で作業する仲間がいると、不思議と踏ん張れた。
「あと二十頭だぞ」
誰かの声に、牛舎の空気が少しだけ明るくなる。
朝食は、いつも賑やかだった。
大きなテーブルに並ぶご飯と味噌汁。
農家のお母さんの作る料理は、どれも身体に染みた。
「痩せたら仕事にならんからな」
そう言って、茶碗に山盛りのご飯をよそわれた。
午前の作業は畑だった。
地平線まで続く畑を見たとき、言葉を失った。
草を抜いても、抜いても、終わらない。
隣の列では、同じ高校の研修生が黙々と手を動かしている。
汗だくになりながらも、時折目が合うと、笑った。
「これ、終わるんかな」
「終わらんかったら、住み着くしかないな」
そんな冗談を言いながら、手を止めなかった。
十一時半、子牛へのほ乳。
小さな牛が、夢中で乳を飲む姿を見ると、思わず笑ってしまう。
昼食後の一時間。
洗濯物を干し、草の上に寝転がる。
空は、信じられないほど高かった。
午後も作業は続く。
雨の日は牛舎の補修。錆を落とし、ペンキを塗る。
三時のおやつは、特別だった。
搾りたての牛乳を火にかけ、冷やす。
パンと一緒に口に含むと、甘さが広がる。
「これ、売りもんよりうまいよな」
誰かが言うと、全員が頷いた。
夕方五時。
再び搾乳。
疲れた身体に鞭を打ちながら、黙々と作業する。
牛舎の外は、いつの間にか夕焼けに染まっていた。
作業が終わるころ、夜が来る。
夕食後、外に出ると、誰かが花火を持ってきた。
パチパチと弾ける音が、広い夜空に消えていく。
三つ上のお姉さんが、笑いながら線香花火を持っていた。
火の玉が小さく揺れるのを、皆で見つめる。
「落ちるまで、誰が一番長いかね」
そんな他愛ない会話が、妙に楽しかった。
別の日の夜は、ギターが鳴った。
音は拙かったが、誰も気にしなかった。
歌い、笑い、語った。
仕事の話、学校の話、将来の話。
何になるかなんて、誰も本気で決めていなかった。
最終日の夜、ジンギスカンの匂いが広がった。
「よく頑張ったな」
農家のお父さんの言葉に、胸が熱くなる。
肉を焼き、酒を少し飲み、笑い合った。
この時間が終わることを、誰も口にしなかった。
翌朝、荷物を持って外に出ると、牛たちがこちらを見ていた。
「じゃあな」
心の中で、そう言った。
長い帰り道。
船と列車を乗り継ぎ、身体は揺れ続ける。
だが、心は揺れなかった。
あの一ヶ月で、汗の意味を知った。
働くことの重さと、仲間と笑うことの尊さを知った。
四時半の白い息。
牛舎の音。
夜空に消えた花火。
あれは確かに、
何にも代えられない、僕の青春だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます