北海道酪農家住み込み研修記

清ピン

第1話…短編小説風「四時半の白い息」


目覚ましが鳴る前に、牛舎の気配で目が覚めた。

 まだ空は暗く、窓の外は薄い霧に包まれている。時計を見ると、四時二十分。北海道の夏は、夜と朝の境目が曖昧だった。

 作業着に袖を通し、顔を洗う。冷たい水が眠気を完全に奪った。

 四時半。牛舎に向かうと、すでに牛たちは低く鳴き、足踏みをしている。三百頭。圧倒される数だったが、ここに来て二週間、ようやくその「多さ」に慣れ始めていた。

 五時、作業開始

 まずは配合飼料を与える。首輪を固定し、逃げないようにしながら、搾乳の準備を整える。

 パイプラインミルカーの真空音が牛舎に響き始めると、朝が始まったと実感する。

 四本の筒を乳房に取り付ける。

 搾られた乳はパイプを通り、静かにタンクへ流れていく。

 気を抜けないのは乳房炎だ。

 一頭でも見落とせば、すべてが無駄になる。

 経験がものを言う世界だった。先輩の手元を見ながら、指先の感覚を必死に覚えた。

 次の牛の乳房を、温かいタオルで拭く。

 汚れを落とし、刺激を与えると、白い乳が指の間から弾けるように出てくる。最初の乳は捨てる。それが当たり前だった。

 百頭分の繰り返し。

 終わるころには、腕は鉛のように重くなっていた。

 搾乳班と餌やり班に分かれる。

 今日は餌やりだ。

 配合飼料、乾草、稲わら。

 乳牛だけでなく、子牛にも与える。ほ乳もある。

 カートを押し、牛舎を何度も往復する。汗が背中を伝う。

 すべて終わるころ、ようやく朝ご飯だった。

 時計は八時。三時間の労働。

 食卓には、湯気の立つご飯と味噌汁、卵焼き。

 

信じられないほど美味しかった。

 

「食べなきゃ、もたないぞ」

 

農家のお父さんが笑って言った。

 午前の作業は畑だった。

 地平線まで続く畑。

 歩いても、歩いても、終わらない。

 草抜きはすべて手作業だった。

 前を見ると、まだ半分も終わっていない。

 振り返ると、同じ距離が残っている。

 北海道の大きさを、身体で知った。

 十一時半、子牛へのほ乳。

 必死に吸い付く小さな口に、少しだけ疲れが和らぐ。

 昼食後、一時間の自由時間。

 洗濯をし、横になり、誰かと話す。

 短い休息だった。

 午後も同じ作業。

 雨の日は牛舎の補修。錆を落とし、ペンキを塗る。

 どんな天気でも、仕事は止まらない。

 三時のおやつは、搾りたての牛乳だった。

 火にかけ、冷やしたそれは、甘く、濃く、喉を満たした。

 夕方五時。再び搾乳。

 朝と同じ作業を、疲れた身体で繰り返す。

 終わるころには夜だった。

 一日の作業時間、十五時間。

 布団に入ると、身体がまだ揺れているようだった。

 それでも、嫌ではなかった。

 夜、花火をした。

 ギターの音が、北海道の夜に溶けた。

 三つ上のお姉さんと話した。

 十五上のお兄さんと笑った。

 農家の兄妹と、冗談を言い合った。

 最終日の夕食はジンギスカンだった。

 煙と笑い声が、牛舎とは違う温かさで満ちていた。

 「また来いよ」

 その一言が、胸に残った。

 帰りの長い旅路。

 船と列車を乗り継ぎ、身体は揺れ続けた。

 だが、心は不思議と静かだった。

 あの一ヶ月で、乳製品の重さを知った。

 労働の重さと、人の優しさを知った。

 四時半の白い息。

 牛舎の音。

 仲間の笑顔。

 あれは、確かに、僕の青春だった。

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