第4話 文芸部の静けさは、距離を誤魔化してくれない




 佐倉ひなたが文芸部を訪ねてきた翌日。


 俺は、放課後の教室で一人、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


 特別な出来事があったわけじゃない。

 ただ、昨日の部室の空気が、頭の中に残っていた。


 ひなたの声。

 桜庭の視線。

 自分の、どこか落ち着かない気持ち。


「……考えすぎだろ」


 小さく呟いて、鞄を持ち上げる。


 いつものように、文芸部へ向かうだけだ。


 *


 部室のドアを開けると、すでに桜庭しおりが来ていた。


 昨日と同じ席。

 同じ机。

 でも、今日はノートを閉じて、窓の外を見ている。


「こんにちは、先輩」


 俺に気づいて、彼女は立ち上がった。


「早いな」


「昨日よりは、少しだけ」


 そう言って、控えめに笑う。


 その仕草が、やけに自然で、

 この部室に最初からいたみたいに見えた。


「今日は、何を書いてたんだ?」


 何気なく聞いたつもりだった。


「……秘密です」


「え?」


 思わぬ返答に、間の抜けた声が出る。


「まだ、途中なので」


「そっか」


 それだけで会話が終わる。


 でも、不思議と沈黙は重くなかった。


 昨日までなら、気まずさを覚えていたはずだ。

 今は、ただ静かだ。


「先輩」


 桜庭が、少し迷うような間を置いて言った。


「昨日の……幼なじみの方」


「ひなたのこと?」


「はい」


 名前を出すと、桜庭は小さく頷いた。


「仲がいいんですね」


 また、その言葉だ。


「……どうだろうな」


 俺は、昨日と同じ答えを返してしまった。


「ずっと一緒にいたから、

 仲がいいのかどうかも、よく分からない」


「そういうものですか?」


「たぶん」


 桜庭は少し考えるように視線を落とす。


「でも」


 そう言って、顔を上げた。


「相沢先輩のこと、よく知っている人だと思いました」


 胸の奥が、少しだけ締めつけられる。


「……そう、見えた?」


「はい」


 迷いのない返事だった。


「言い方とか、距離とか……

 すごく自然で」


 自然。


 それは、俺自身が一番、意識していない言葉だった。


「……長いだけだよ」


 そう言って、話題を逸らす。


「それより、今日は何する?」


「先輩の続き、読ませてください」


「……また?」


「嫌でしたら、いいです」


 そう言われると、断れない。


「嫌じゃないけど……

 恥ずかしいだけだ」


 正直な気持ちを言うと、桜庭は少しだけ目を丸くした。


「先輩でも、恥ずかしいんですね」


「当たり前だろ」


 むしろ、年下に読まれるほうがきつい。


 俺は昨日と同じように、原稿を差し出した。


 桜庭はそれを受け取ると、今日は声に出して読まない。

 黙って、ページを追っていく。


 時々、ペンで何かを書き込む。


「……それ、何?」


「気になったところに、印を」


「え」


 思わず声が出た。


「ダメでした?」


「いや、そうじゃなくて……」


 読者に、意見をもらうなんて、久しぶりだった。


「終わったら、教えてくれる?」


「もちろんです」


 そう言って、また読み始める。


 静かな時間。

 けれど、意識はさっきよりも彼女に向いていた。


 視線の先。

 ペンを持つ指先。

 少しだけ前のめりになった姿勢。


 ――近い。


 意識した瞬間、急に距離がはっきりする。


 机一つ分。

 手を伸ばせば、届く距離。


 俺は慌てて視線を逸らした。


「……先輩」


 呼ばれて、また心臓が跳ねる。


「はい」


「ここなんですけど」


 桜庭は原稿の一部を指差した。


「この主人公、

 どうしてここで何も言わなかったんですか?」


「……言えなかったんだと思う」


「どうしてですか?」


「怖かったから」


「何が?」


「……変わるのが」


 言いながら、

 それが誰の気持ちなのか分からなくなる。


「今の関係が壊れるのが、怖かった」


 桜庭は、少しだけ目を伏せた。


「それ、分かる気がします」


「……そう?」


「はい」


 小さく頷く。


「変わらないままでいたい気持ちと、

 変わりたい気持ちって、

 たぶん、同時にあるんですよね」


 その言葉に、胸がざわついた。


「……桜庭は、どっち?」


 思わず、聞いていた。


 彼女は一瞬、驚いたように俺を見る。


 それから、少しだけ考えて答えた。


「私は……」


 ほんの少し、間を置いて。


「変わりたい、です」


 その声は、静かだけど、はっきりしていた。


 胸の奥で、何かが動く。


「……そっか」


 それ以上、何も言えなかった。


 桜庭は原稿を閉じて、俺に返す。


「とても、好きな話です」


「ありがとう」


「でも」


 そう前置きしてから、続けた。


「この主人公、

 きっと、このままじゃいられませんよね」


「……たぶん」


「なら」


 桜庭は微笑んだ。


「変わるところ、見てみたいです」


 それは、作品の話のはずだった。


 なのに。


 俺は、自分自身に言われている気がして、

 何も返せなかった。


 *


 帰り道。


 昇降口で靴を履き替えていると、

 廊下の向こうに、佐倉ひなたの姿が見えた。


 目が合う。


「……よ」


 軽く手を挙げる。


「お疲れ」


 ひなたは、俺の顔を見るなり、少しだけ眉をひそめた。


「何?」


「いや」


 じっと見られて、落ち着かない。


「なんか、雰囲気違わない?」


「そうか?」


「うん」


 ひなたは腕を組む。


「文芸部、楽しい?」


「……まあな」


 少し間を置いて、答える。


「人が増えたし」


「そっか」


 ひなたはそれ以上、何も言わなかった。


 でも、その視線は、

 俺の奥にある何かを探るみたいだった。


 俺は気づかないふりをして、

 校舎を出た。


 文芸部の静けさが、

 少しずつ、俺の中を変え始めていることを。






第4話 文芸部の静けさは、距離を誤魔化してくれない

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