第四章 名前を呼んでよ③

「この本のことだけど……」


 カバンから取り出されたのは、今朝賢人が勝手に中身を見てしまったもの。不安から手がどんどん冷たくなって、胸の辺りがそわそわとし始める。心なしか目頭がピクピクと痙攣している気がする。


「それについては勝手に見てしまって……」


 すみませんでしたと頭を下げる賢人に、五十嵐は何も言ってこない。恐る恐る上目遣いで彼女の顔を盗み見るも、五十嵐は賢人の謝罪に気が付いていないのか、口をもごもごとさせている。その言おうか言わまいか迷っている雰囲気が、賢人の不安を加速させていく。


「あのね……実はこの本、私のなんだ」


 長い沈黙の後、ようやく口を開いた彼女の言葉に、賢人はただ頷くことしかできない。


「いや、だからこの本、私のなんだけど……?」

「うん」


 それで続きは? と言うのも変な気がして、賢人は何度も頷いて続きを促す。しかし、そんな賢人の態度が予想外だったのか、五十嵐は露骨に不満そうな表情を浮かべた。もしかしてさっきの謝罪で足りなかったのだろうか。


「何も言わないの?」


 不安そうに尋ねられても、そう訊きたいのは賢人の方だ。それに、言うとしても何を言えば良いのだろう。やはり謝罪が足りなかったのだろうか。


「あの、それについては本当に申し」

「じゃなくて」


 さん付けで呼んだ時よりも遥かに食い気味で言われる。謝罪もさせてもらえない、五十嵐の言葉の意図が分からない、なんなら彼女の真っ直ぐにこちらを見つめる整った顔があまりに真剣で、何かもう怖くて泣きそうになってきた。この前観たスプラッタ映画も怖かったけれど、あれは飽くまでもフィクションの話で、こちらはリアルな分何倍も迫力がある。


「ほら、私がこの本を持ってることに対して、何か思うところとかないのかなって」


 さっきは綺麗だと思った彼女の瞳が、今はただただ怖い。彼女から発せられる圧が、賢人の口を無意識に軽くさせた。


「勝手に中身を見てしまったのは本当に悪かったと思ってるんだ。それに、そんなに色々書き込んだりしているのを見て、真剣に小説を勉強してるってのは伝わって来たから、俺がそれについてとやかく言うのは違うんじゃないかなって思う。だから、俺が言えるのは謝罪だけです。本当にすみませんでした」


 机に擦り付けるように勢い良く頭を下げてから、そこでようやく我に返る。本当に何を言ってるんだ。先ほど自分の口から零れ落ちた言葉を思い返せば返すほど偉そうな発言に、賢人の顔からサーッと血の気が失せる。急いで顔を上げると案の定五十嵐が困惑した面持ちでこちらを見ていて、もう申し訳ないやら情けないやらでどうして良いか分からなくなる。


「その……俺なんかが偉そうに言って悪い」

「……そんなこと、ない」


 割れ物を扱うように、でも、どこか力強く本を握りしめて五十嵐は言った。それから、口をきゅっと固く閉ざして、次に発する言葉のために力を溜めている様子に、賢人はそれが多分、今日彼女がここに自分を呼び出した理由だと悟る。きっと、自分が怖がっていた事は、全て的外れなのだろう。ただ、彼女は賢人に知って欲しかっただけなのかもしれない。


「私、小説を書いてるの」


 こちらを見ずに、少し震える声で五十嵐は言う。例え、もっと軽く、あっけらかんと言われたとしても、賢人は絶対に馬鹿になどしない。でも、それは賢人自身だから言えることでしかなくて。美化委員で多少の関係性があるにせよ、賢人のことを知らないに近い彼女からすれば、もしかしたらと不安になりながら、たったその一言を言うために、きっと五十嵐はとてつもない勇気を振り絞ったはずなのは、朝から今までの彼女を見ていればいくら鈍い賢人でも分かる事だ。


 もしかしたら、昔誰かにその事で何か馬鹿にされるようなことを言われたのかもしれない。そうじゃなくても、周りが誰かを馬鹿にするのを聞いて、不安になっていたのかもしれない。この本は自分のじゃない。

 そう言えば良いだけなのに、それでも秋山さんのように深い繋がりでもない自分なんかに、その秘密を茶化すわけでもなく打ち明けたと言うことは、きっとそれだけ彼女が真剣に小説を書くことと向き合っている証しなんだろう。

 ただ怠惰に、消費するように毎日を生きる賢人にとっては、それだけ真剣に何かと向き合える彼女が少し羨ましかった。

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