第四章 名前を呼んでよ②

「もう来てたんだ」


 先程の表情はどこへやら。よく言えばクールビューティー、別の言い方をすればミステリアス。さらに別の……いや、それはもういいや。五十嵐さんは相変わらずの無表情で賢人を見下ろしていた。


「本当にさっきだけどな」


 できるだけ平静を装おうとしたけれど、思いっきり声が上擦ってしまった。しかし、そんな賢人の様子など全く興味ないようで、五十嵐さんはそれ以上は何も言わずに目の前のソファへ腰掛けた。メニューに視線を落とす彼女の表情は冷え切った鉄板のようで、さっき浮かべていた穏やかな表情はどこへ消えてしまったのだろうと心の中で頭を捻る。


「もう決まってる?」

「あ、あぁ。一応」


 カラカラになった喉を潤すため、机の上で汗をかいているグラスに口をつけると、レモンの風味がさっぱりと喉を潤してくれた。五十嵐さんも決まったのか、無言で手を挙げると、おばあさんがニコニコとした笑みを浮かべて注文を取りに来てくれる。


「注文は? 桜子ちゃんはいつものでいいかしら?」

「それでお願いします」

「で、彼氏さんは?」

「――ッ!」


 危うく飲んでいた水を噴き出すところだった。何てことを言い出すんだこの人は。


「いえ、彼氏じゃないです」


 賢人が何か言うよりも先に、五十嵐さんがハッキリと否定する。そのあまりにもキッパリとした物言いにまた少し悲しくなるけれど、事実なのだから当たり前か。鼻を啜るのは花粉症のせいだ。


「あらぁ、そうなの? じゃあ、そこの君は何にする?」

「ほ、ホットのブレンド? で、お願いします……」

「じゃあ桜子ちゃんと同じね」


 おばあさんはそう言って伝票に何かを書き込むと、そのままカウンターへ戻ってしまう。先程の爆弾発言のせいかは分からないが、二人の間に気まずい沈黙が偉そうに横たわる。五十嵐さんはメニューを睨んだまま、こちらを見ようともしない。ここに呼び出したのは彼女なのだから、五十嵐さんから何か話してくれないだろうかと思ったけれど、元々と言えば自分が本を無遠慮に開いてしまったのが原因だし、ここは賢人から話を振るべきだろう。


「あのさ」


 諦めて口を開くと、五十嵐さんがようやく顔を上げる。ぱっちりと合った彼女の瞳は、黒く透き通ったガラス玉を見ているようだ。じっと見ているとなんだか吸い込まれてしまいそうで、怖くなった賢人は逃げるように視線をズラすと、左目の下にはやっぱり黒子があって、あの日見た人物と同じ人なんだと今更ながら実感してしまう。


 あの日金色だった髪の毛は今は茶色く染色されていたけれど、どちらかと言えば今の方がよく似合っていると思う。髪の間から見える、右耳に着けられた銀色のシンプルなピアスがきらりと光って見えた。それらが全て彼女の白い肌によく映えていて、性別は違うが、同じ日本人なのにこうも違うのかなんてことを考えて、少し悲しくなる。まあ、目立たないことをモットーに生きている賢人からすれば、今のままがちょうど良かったりもするのだけれど。


「何?」


 言葉を続けない賢人を不審に思ったのか、五十嵐さんが丁寧に整えられた眉根を怪訝そうに寄せた。


「そのー……」


 言われてから、そう言えばこの沈黙を破ることが目的で、話す内容を一切決めていなかったことを思い出す。かと言って君の瞳に見惚れていたんだ、なんてことは死んでも言いたくない。ちらっと彼女の手元の黄ばんだメニューを見て、再び口を開く。


「五十嵐さんってコ」

「五十嵐でいい。五十嵐さんってよそよそしくて好きじゃない」


 食い気味で言われてしまう。正直そこまで親しくない人を呼び捨てにして良いのは小学生までな気がしていたけれど、好きじゃないと言われてまでさん付けで呼ぶのも躊躇われる。


「じゃ、じゃあ五十嵐……」


 少しだけ呼び捨てにするのは気恥ずかしかったが、呼んでみるとこんなもんかって気持ちにもなる。そう言えば人をさんやくん付けで呼ばないのは光輝以来かもしれない。


「何?」

「五十嵐さ、じゃなかった。五十嵐ってコーヒー飲むんだなと思ってさ」


 先程と同じ言葉だったが、呼び捨て効果か少しだけ親近感を抱いてしまう。


「そう言う君も飲むじゃない」

「それはそうなんだけどさ。それでも、何と言うか……コーヒーとかは飲まなそうなイメージだったから」

「イメージなんてそんなものじゃない?」


 確かに言われてみればそうかもしれない。勝手に彼女みたいな派手な人は、スタバの何とかフラペチーノや流行りのお店の映えるメニューみたいな、いわゆる”オシャレ“に囲まれて過ごしてると思ってたし。

 そんなたわいもない会話をしていると、注文していたコーヒーが二つ、白いカップに入れられてやって来た。湯気に混ざって少し酸味のある爽やかな匂いが鼻腔をくすぐる。変にカッコつけて普段は全く飲まないコーヒーを頼んでみたが、これはこれで正解だったかもしれない。


「ここは紅茶がすっごく美味しいんだけど、コーヒーもとっても美味しいんだよ」

「へー」


 賢人はそんな適当な相槌を打ちながらコーヒーを口に含むも、途端に広がる苦味に思わず顔をしかめてしまう。やっぱりおこちゃま舌の自分には早かったかもしれないと、コーヒーと一緒に届けられたミルクと砂糖をざぶざぶと入れる。チラリと目の前の彼女を見ると、すらりと伸びた背筋で、ブラックのままのコーヒーを静かに飲んでいた。その大人びた姿に、彼女が本当に同い年か分からなくなる。賢人の視線を感じたのか、カップ越しの五十嵐と目が合った。


「別にミルクを入れてるからって何も言わないから」

「え? あぁ、ごめん」


 不服そうに言う彼女の意図が分からなくて、反射的に謝ってしまう。どう言う意味だろう。しかし、五十嵐はそれ以上何も言うことなく、ただ無言でコーヒーを味わうだけの時間が続く。空気清浄機が稼働する低い音と、離れた席から聞こえるマダム達の笑い声に混じって、ときおり新聞が捲られる乾いた音だけが響いている。


「あのね」


 お互いのカップからコーヒーが半分ぐらい無くなった頃、ようやく五十嵐が重い口を開いた。賢人が顔を上げると、真っ直ぐにこちらを見る彼女と目が合った。

 そこでようやく、賢人は本来ここに呼び出された経緯を思い出し、これから何を言われるのだろうと途端に憂鬱になった。

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