第四章 名前を呼んでよ①

 待ちに待ってはいない放課後。賢人は五十嵐さんに指定されたキャットウォークの前で、数回深呼吸してから、覚悟を決めて扉を開く。すると、そんな賢人を嘲笑うかのようにチリンチリンと可愛いドアベルの音が、楽しげに鳴った。


「いらっしゃあい」


 店に入ると、しゃがれた声で髪の毛を緑色に染めたおばあさんが出迎えてくれる。そこまで広くない店内には、常連客らしい数人のマダムが談笑している他は、難しい顔で新聞とにらめっこしているおじさんが一人いるだけで、なんともゆったりした時間が流れていた。先程の緑髪のおばあさんに促されるまま、奥にポツンと空いている四人がけの座席に腰掛ける。

 ワインレッドのソファは見た目よりも柔らかく、座るとふかふかして気持ちが良い。机の脇に立てかけられたメニューも、長年使われているからか黄ばんだラミネートの端が少し剥がれかけていたりと、外観同様レトロチックな雰囲気で溢れている。ただ、賢人のすぐ近くにある空気清浄機がゴーッと大きな音を立てているのが現代を感じさせて少し悲しくなるが、それでも花粉が猛威を振るうこの時期は大変有り難くもある。


 現実逃避のためにメニューを睨み始めて数分後、賢人が入店した時と同じ、楽しげなドアベルの音が店内に響く。どきりとして顔を上げるも、ちょうど賢人が座っている席からは入り口付近に置かれた観葉植物が邪魔して、誰が来たかを伺うことができない。


「あらぁ、今日も来てくれたの? いつもの席、空けてるわよ」


 そんなおあばさんの嬉しそうな声に、来店したのが常連客だと分かる。メニューの値段を見るに最安値の紅茶とコーヒーは一杯七百円からと高校生からすれば結構お高めの値段設定だし、睦川校生が通うとは考えにくい。そんなことを勝手に決めつけ、賢人は一人安堵する。


「いえ、今日は待ち合わせなので。奥の席って空いてますか?」


 聞き覚えのある声にまさかと腰を浮かせてのぞき込むと、案の定五十嵐さんが立っていて、ちゃんと来るのかよ! と心の中で叫んでしまう。いや、よくよく考えてみればアルバイトしたりなんだったりで通おうと思えば通えたりするわけで。それに、昔からあんまり良くないお金の稼ぎ方もあるし、持っている人は持っている。そんな当たり前のことに、今さら気がついて賢人は頭を抱えた。


「あらぁ、ごめんなさいね。奥の席はもう先客を入れちゃったのよ」

「いえいえ、気にしないでください」

「ごめんなさいねぇ。ちなみにその待ち合わせの人って言うのは日和ちゃん?」

「いえ、今日は違う人です。あの子は今日アルバイトの日なので」


 もう一度顔を覗かせると、学校では見たこともないような、笑顔ではないが柔らかい表情を浮かべる彼女に、賢人は内心どきりとしてしまう。いつものポーカーフェイスはどこにもなく、あの瞬間だけ見れば、どこにでもいる普通の女の子にしか見えなかった。


「男の子?」


 おばあさんが急にニヤッと笑ってこちらを見た。目が合った気がして、賢人は逃げるようにメニューで顔を隠した。


「えぇまあ、一応……」


 歯切れの悪い言葉に、おばあさんは「あらー!」と楽しげな声を上げる。


「あっ、いや、全然、そんな人じゃないんで……」


 表情が見えていないから彼女がどんな顔で言っているのかは分からないが、それでも慌てて否定する様子に、賢人はそんなに否定することないではないかと、なんとも言えない悲しい気持ちになる。

 確かにあの整った容姿を持つ五十嵐さんとこんな冴えない自分とじゃ釣り合うわけがないのは分かっているし、そもそも賢人と彼女の間柄はクラスメイトで、後は同じ美化委員というだけだ。それに、今日ここに呼び出されたのは今朝の話し合いの続きなのであって、否定されるのは当然なのだが、やっぱりなんとも言えない残念さを感じてしまうのは何故だろうか。今、鼻をずっと啜ったのは花粉症のせい。


 ふわっと覚えのある甘い、けれども嫌味のない香水の匂いが、花粉で詰まった鼻などものともせずに柔らかく届いた。その瞬間、電車の中での出来事が鮮明に思い起こされたような気がして、賢人は弾かれたように顔を上げた。

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