第二章 始まりは青い春⑥

 時間にしてはきっと数分の出来事だったけれど、当時の賢人にとっては何年間も続いたような気がした。早く終われ終われと願い続けていると、最後に誰かの唾がペッと賢人の顔に吐きかけられた。


 情けなくて、痛くて、涙が止まらない。痛め付けられた所がジンジンと熱を持っている。一人だったなら、きっと賢人はこのまま蹲って泣き続けていただろう。それでも、別に特別な感情を持ってはいないが、一人のクラスメイトがここにはいるのだから。

 充分にカッコ悪いところは見せたけれど、これ以上カッコ悪いところを見せたくはなかった。


 しばらくして賢人が顔を上げると、そこに彼らの姿はもう見えなくなっていた。先程唾を吐かれたところを泥の付いた手で強引に拭って、まだ散らばったままの山井の私物を拾い始める。

 山井はと言うと、呆然とした顔でそんな賢人を眺めるだけだった。賢人以上にショックを受けただろうから、別に拾う必要はないとは思うけれど、それでも一言お礼ぐらいはあっても良いんじゃないだろうか。

 そんなことを考えながら、先程蹴飛ばされた筆箱を拾う。マフラーを巻いた男の子と散りばめられた星達が描かれた、小さな筆箱。そこに書かれた男の子が、『星の王子さま』に出て来る王子さまだと知ったのはもっとずっと後の話だ。


「ほら、これで全部だろ」


 言いながらずっと鼻を啜ると、血の味がした。気が付かなかったけれど、どうやら鼻血が出ているらしかった。山井は無言で賢人が拾って来たものを見つめている。もうここまで来るとお礼は言われなくても良いから、せめて何か一言ぐらいは喋って欲しい。


「…………ない」

「え?」

「そんなの、いらない!!」


 次の瞬間、賢人が持っていたものが、再び泥の中にはたき落とされた。瞬間、頭の中で何かがガシャンと音を立てて崩れた気がした。その音が何なのかは分からない。けれど、自分の視界がゆっくりと下がって行くのが、まるでスローモーションのように見えた。

 驚きのあまり尻餅を付いた賢人を置いて、山井は空のランドセルだけを引っ掴んで走り去ってしまう。唖然としたまま後ろ姿を見つめることしかできない賢人の手には、彼女の筆箱だけが残されていた。


 家に帰ると母親が顔を真っ青にして、どうしたのかと問い詰めて来たけれど、賢人は答えるのも億劫でそのままシャワーを浴びて泥のように眠った。

 雨に濡れたせいか、はたまた他に理由があるのかは分からないけれど、翌日から出た高熱のせいでしばらく学校を休むことになってしまった。山井の筆箱を不可抗力にせよ持って帰って来てしまったし、返すために早く学校へ行きたい反面、同じクラスのせいでまたアイツらと会わなければならない葛藤が、賢人の体調をまた悪くするのだった。


 ようやく熱も引き、学校に向かうとすぐに担任に職員室へと呼ばれた。この前のことだろうかとビクビクして職員室へ向かうと、担任からは淡々と山井が親の仕事の関係で来週には転校することになったが、もうこの学校には来ないため会えないこと、休んでる間に出た宿題のことを伝えられただけだった。

 教室に入ると、皆は気まずそうに視線を逸らし、誰も賢人に話しかけて来ようとはしなかった。遠くであの日賢人を痛め付けて来た奴らがニヤニヤ笑っているのが見える。この調子なら今年は……いや、小学校を卒業するまでこのままかもしれない。もしかすると中学校も。

 そう考えるとなんであんなことしたんだと後悔の念がぶり返してくる。しかも、その原因となった女の子は、賢人を拒絶したかと思えばもう会えないと聞かされたし、この怒りの矛先をどこに向ければ良いのか分からない。


「久しぶり、賢人」


 一人頭を悩ませていると、そう言って肩を叩かれた。驚いて顔を上げると、ぶっきーが難しい顔をしてこちらを見ていた。


「ひ、久しぶり……」


 これから一人だと思っていただけに、無意識に笑みが溢れてしまう。それでも、そんな思いは次の一言で踏み躙られてしまう。


「賢人さあ、山井庇ってボコられたってマジ?」


 遠くで聞いてたであろう、例のグループがどっと笑い声を上げる。ぶっきーはぶっきーで笑いを我慢できず、今にも吹き出しそうだ。助けを求めるように辺りを見渡すと、近くで聞いていたであろう女の子が、さっと目を逸らすのが見えた。その瞬間、賢人はこれがずっと続くんだと悟った。たった一度、自分の正義感なんかに従ったせいで、こんなことになるなんて思いもしなかった。

 まだ幼かった賢人はそこから極力目立たず、出しゃばらず。何をされたとしても息を潜めて生きることを誓った。人なんか信じるものか。人を助けたところでどうせ裏切られるんだ。それなら、もう人と関わりたくない。ひっそりと生きていくのが、きっと自分にはお似合いなんだ。


 あの時人を助けて失ったものは非常に多かったけれど、学んだことも多い。人はきっと間違うんだ。何度でも何度でも。幼い頃の賢人はただ、自分にそう言い聞かせることしかできなかった。

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