第二章 始まりは青い春⑤
あれは小学四年生の頃。当時の賢人は今と違い、どちらかと言えば明るく、活発な方だった。今となっては友達と呼んで良いのかは分からないが、いつも人に囲まれていたように思う。でも、その日の帰り道は珍しく一人で、空からは大量の雨が降っていた。傘を叩く雨音が、酷くうるさかったことをよく覚えている。
もし、あの日一人で帰っていなければ、「今」は変わっていたのだろうか。
図書館で借りていた本の返却期限を五ヶ月間も延滞していた賢人は、痺れを切らした司書の先生に呼び出され、長々と説教をされた後に一日図書館の掃除を命じられたせいですっかり帰りが遅くなっていた。
本来通り抜けが禁止されている公園に足を踏み入れると、公園の奥の方からバタバタと大きな音が聞こえてきた。驚いてそちらを見ると、男女数人グループの内の一人の女の子が、ランドセルを背負ったまま盛大に雨の中で転んでしまっていた。紫色のランドセルから、彼女の持ち物であろう私物が飛び出して泥水に濡れていた。
「やば」
見るも無惨な状況に、賢人の口から思わずそんな言葉が零れた。見たところ彼女は一人ではないし、誰かが助けてくれるだろうなんてことを考えながらそのまま無視して通り抜けようとした時、「やめてよ!」と悲痛な叫びが聞こえた。驚いてそちらを見ると、先程転んだ少女の私物を周りにいた数人が、踏み付けたり蹴飛ばしたりして笑っていた。
目の前の光景を受け入れられなくて、しばらく動けなかった。その内の一人が賢人を見つけたらしく「ゆーあさ!」と楽しそうな声で賢人を呼んだ。最初は雨が邪魔してよく分からなかったけれど、どうやら彼らは同じクラスのヤンチャグループらしかった。
「な、何してんの?」
恐る恐る近づいて、先程賢人を呼んだ一人に訊ねる。
「湯浅聞いてくれよー。こいつがさ、ずっと無視してくんだぜ? 酷くね?」
そいつはケタケタと笑いながら、足元に転がっていた青い筆箱を遠くに蹴飛ばした。
「無視すんなってガッコで言われてんのにさぁ、無視するって人としてヤバいよね」
そう言って笑った少女の口から、尖った八重歯が覗いている。それがまるで、お前もそう思うだろと問いかけてくるようで、賢人は頬を引きつらせることしかできなかった。
「湯浅はどうしたん? ぶっきーとかは一緒じゃねーの?」
ぶっきーとは湯浅と特に仲が良かった友人で、交友関係の広い彼はヤンチャグループの面々とも仲が良かった。
「俺は本返してないからって図書室に呼び出されてたんだよ。だから、ぶっきーとは一緒じゃないんだよね」
正直に答えると、彼はもう賢人から興味がなくなったのか、ふーんと生返事をしながらスマホを弄り始めてしまう。このままここにいれば、自分も同じに見られるのではないかと思い始めた頃、一際大きな笑い声が響いた。視線を向けると、男子の一人が泥だらけになった少女に向かって、飛び蹴りをしたところだった。少女が再び泥の中に転がり、痛そうにその場で蹲ってしまう。一瞬、少女と目が合ったような気がした。その瞳には諦めの色が浮かんでいるように見えて、弾かれたように言葉が飛び出す。
「お前何やってんだよ!?」
言ってから、すぐにしまったと急いで口を手で覆ったけれど、もう遅かった。今まで楽しげだった雰囲気が、一瞬にしてシンと静まり返る。賢人はこの空気をよく知っていた。さっと頭から血の気が引いていく感覚が、これから先に起こるであろうことを冷静に伝えてくるようだった。
「何? 湯浅はこいつの味方なん?」
今し方少女を蹴飛ばした男子が、ドスの効いた声で問いかける。
「いや、別に味方とかじゃないけどさ……」
「じゃあ何? 好きなん? 湯浅は
「そう言うわけじゃないけど……」
女子の一人が、小声で「キッショ」と呟いたのが聞こえた。手が冷たくなっていくのと反比例するように、心臓がどくどくと気持ち悪いぐらいにうるさい。こんなことならちゃんと通学路を通って帰ればよかった。いや、本ぐらいちゃんと返せば良かったんだ。そもそも、どうしてお前がここにいるんだよと、雨に濡れる山井と呼ばれた彼女を睨む。
クラスで〈まっくら山井〉と呼ばれる彼女は、出席番号は賢人の一つ前で、授業中以外はずっと一人で本を読んでいるような大人しい子だった。たまたま近くの席になることが多かったから、賢人も何度か話しかけたことがあったけれど、彼女は喋ることがそもそも得意ではないらしく、返ってくる言葉はいつも一言か二言ぐらいだったし、笑顔なんて見たこともない。ただ、顔を隠すように伸びた長い黒髪はいつもツヤツヤと光っていて、幼心に綺麗だと思った。そんな、特別仲良くもない女の子。特別な感情なんて、少しも抱いていない女の子。
そんな子のためにどうしてこんな目に合わなきゃいけないんだよ。恐怖から、涙が零れそうになるのを必死に堪える。今ここで彼らと同じように山井を扱ったとしたら、彼らはきっと賢人を仲間として受け入れてくれるだろう。受け入れてくれなくとも、これまで通りには接してくれるだろう。
「お前もしかして泣いてんの?」
顔を上げた賢人に、八重歯の少女が馬鹿にしたように言う。心がボコボコになって、言葉より先に涙がこぼれ落ちる。それでも、それでもだ。ただ、賢人は彼らと同じになることは何が何でも嫌だった。
「も、もうやめとけよ……」
「声ちっさ!」
その一言に、周りが今日一番の笑いに包まれる。それが賢人をたまらなく悔しくさせたけれど、それでも勇気を振り絞って、今度は涙で震える声で叫ぶ。
「もうやめろって言ってんだろ!」
次の瞬間には、賢人も山井と同じように地面に転がっていた。水溜りに突っ込んだからか、シャツと一緒にズボンも泥水で濡れて、そのままパンツまで染みてくる。何が起こったのかを理解するよりも早く、賢人の体を暴力が襲う。数人から同時に力任せに体を殴られ蹴られ、賢人にできることは蹲って歯を食いしばり、この嵐が過ぎ去るのを待つことだけだった。
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