第28話 助けた相手が、敵になる瞬間
午後。
第一企画部フロア。
資料の受け渡しが、
不自然に途切れる。
佐伯ミナが席を立つと、
一人の社員が、視線を外す。
タイミングが、少しだけ早い。
偶然ではない。
佐伯は、何も言わず通り過ぎる。
表情も、歩調も変えない。
だが――
変化は、確実に起きていた。
対象者:松井
先日の是正案件の、当事者。
正式な処分はなかった。
注意と配置調整のみ。
「救済」と言える形だった。
それでも。
松井は、佐伯を避けている。
昼休み。
給湯室。
佐伯が入った瞬間、
松井はカップを持ったまま、
一歩だけ下がった。
松井
「……あ」
佐伯
「業務上のご用件でしょうか」
淡々。
松井
「……いえ」
「別に」
沈黙。
逃げるように、
松井は部屋を出ていく。
残されたのは、
湯気の立つカップと、
説明されなかった感情。
夕方。
田中が、声を潜めて言う。
田中
「……佐伯さん」
「気づいてますよね」
佐伯
「何を、でしょうか」
田中
「……松井さん」
「完全に、避けてます」
佐伯
「事実です」
即答。
田中
「……怒ってるんですか?」
佐伯は、少し考える。
佐伯
「怒りではありません」
田中
「じゃあ……」
佐伯
「傷ついています」
田中・心の声
(……え?)
田中
「でも」
「助けた側ですよね、佐伯さん」
佐伯
「“助けた”という表現は、主観です」
佐伯
「本人の認識は、異なります」
田中
「……どういう」
佐伯
「彼は」
佐伯
「“守られた”のではなく」
佐伯
「“弱者として扱われた”と感じています」
田中は、言葉を失う。
田中
「……そんな……」
佐伯
「制度介入は」
佐伯
「事実を扱います」
佐伯
「しかし、人の尊厳は」
佐伯
「事実処理の副作用として、削られることがあります」
田中
「……救済なのに?」
佐伯
「救済だからです」
決定的だった。
佐伯
「自力で耐えていたと、本人が信じていた場合」
佐伯
「外部からの介入は」
佐伯
「“あなたは一人では立てなかった”という宣告になります」
田中
「……それ、きついですね」
佐伯
「はい」
否定しない。
佐伯
「だから」
佐伯
「救われた人が、救った人を避けることは」
佐伯
「珍しくありません」
田中
「……敵になる、ってことですか」
佐伯
「敵対ではありません」
佐伯
「距離の再設定です」
佐伯
「尊厳を取り戻すために、距離を取る」
佐伯
「それは、防衛です」
田中・心の声
(……助けたのに)
田中
「……じゃあ」
「佐伯さんは、どうするんですか」
佐伯
「何もしません」
田中
「……え」
佐伯
「彼の尊厳は、彼のものです」
佐伯
「取り戻す過程に、介入する権限はありません」
田中
「……冷たいですね」
佐伯
「境界線です」
佐伯
「同情も、説明も」
佐伯
「今は、侵入になります」
沈黙。
遠くで、
コピー機の音が鳴る。
松井は、
最後までこちらを見なかった。
ナレーション
救済は、必ずしも感謝を生まない。
時にそれは、
人の尊厳を、静かに削る。
助けた側と、助けられた側。
その距離は、
是正後に、初めて可視化される。
ここは、コミュニケーション許可局。
佐伯ミナは今日、
救済を正義だと、主張しなかった。
尊厳が傷つく可能性を、
黙って受け入れただけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます