第26話 境界線の外で、役割を持たない日


休日。

午前十時過ぎ。

佐伯ミナは、スマートフォンを家に置いて外に出た。

仕事用のバッグも持たない。

腕時計もしない。

(今日は、止めない)

(判断しない)

(役割を持たない)

そう決めて、玄関の鍵を閉めた。

駅前。

人は多いが、急いでいない。

休日特有の、少し鈍い流れ。

改札前で、若い女性が立ち止まっている。

ICカードをかざしたまま、動かない。

後ろに列ができる。

一人、二人、三人。

舌打ちはない。

だが、空気が固くなる。

佐伯は、その様子を視界に入れた瞬間――

一歩、足を止めた。

(……止めない)

自分に言い聞かせる。

女性は、鞄を探り、カードを取り出し直し、

ようやく改札を通る。

列が動き出す。

誰も何も言わない。

問題は、自然に解消された。

(……よかった)

胸の奥が、ほんの少し緩む。

(私は、何もしていない)

(今日は、それでいい)

商店街。

昼前。

惣菜屋の前で、二人の男性が言い合っている。

声は大きくないが、言葉は刺さっている。

「だからさ」

「それはそっちの勘違いだろ」

周囲の人は、視線を逸らして通り過ぎる。

佐伯も、同じように歩こうとする。

……が、足が止まる。

(止めない)

(今日は、止めない)

心の中で、繰り返す。

言い合いは、次第に収束する。

一方がため息をつき、

もう一方が背を向ける。

終わった。

(……終わった)

佐伯は、息を吐く。

(私は、第三者)

(介入の必要はない)

自分に、そう確認する。

午後。

公園のベンチ。

コーヒーを飲みながら、空を見上げる。

雲が、ゆっくり流れている。

隣のベンチに、親子が座る。

子どもが、靴を脱いでベンチに上がろうとする。

母親

「ちょっと、汚いでしょ」

子ども

「えー」

やり取りは、それだけ。

佐伯は、視線を外す。

(止めない)

(判断しない)

胸の奥に、わずかな違和感。

(……今のは)

(注意するほどじゃない)

(誰も困っていない)

自分の中で、線を引く。

だが――

気づいてしまう。

母親の言い方。

子どもの間。

(……線は)

(見えてしまう)

見ようとしていないのに。

役割を外したつもりでも。

夕方。

スーパー。

レジ前。

前に立つ高齢の女性が、財布を探している。

店員は、何も言わない。

後ろの客も、黙って待つ。

佐伯も、待つ。

(今日は、止めない)

数十秒。

女性は小銭を見つけ、会計を終える。

誰も、何も言わない。

(……何も起きなかった)

それでいい。

本来は、それでいい。

だが、佐伯の中では、

一つひとつの場面に

「線」が浮かんで、消えていく。

(私は……)

帰り道。

夕焼け。

歩きながら、佐伯は理解する。

止めなかった。

介入しなかった。

役割を果たさなかった。

それでも――

見ていた。

判断していた。

線を、確認していた。

(役割は)

(外せないのかもしれない)

そうではない。

(外す必要が、ないだけだ)

自宅。

玄関。

靴を脱ぎ、明かりをつける。

静かだ。

誰もいない。

責任も、役割も、持ち込まれていない。

佐伯は、コートを掛け、

小さく息を吐いた。

(今日は、止めなかった)

(でも――)

テーブルに置いた鍵を見つめる。

(線は、身体に残っている)

それは疲労ではない。

呪いでもない。

ただ、

自分が自分である、という事実。

ナレーション

役割を外すことはできる。

だが、見えなくすることはできない。

線を引くという行為は、

仕事ではなく、癖でもない。

生き方に近い。

ここは、コミュニケーション許可局。

佐伯ミナは今日、

何も止めなかった。

それでも、

境界線の外に出ることは、

一度もなかった。

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