第24話 何もしなかった者が、一番安全だった
オフィス・夕方
午後6時前。
照明はまだ明るいが、空気はもう帰宅の準備を始めている。
キーボードの音が減り、椅子の軋みが増える時間。
田中の席。
田中は、画面を閉じずに、ただ見つめていた。
今日一日、何も入力していない行がある。
正確には、入力する気力が残っていない。
田中・心の声
(……疲れた)
(何もしてない人の顔、今日はよく見えたな)
少し離れた席。
佐伯ミナは、通常どおり資料を整理している。
書類の角を揃え、ファイル名を整える。
動きはいつもと同じだ。
田中
「……佐伯さん」
佐伯
「はい」
田中
「今日の……」
言いかけて、止まる。
どこから切り出せばいいのか分からない。
佐伯
「どの点でしょうか」
田中
「……あの是正の件」
「関係者、もう全員配置換えになりましたよね」
佐伯
「はい」
田中
「……Aさんも、Bさんも」
「普通に、元気そうでした」
佐伯
「そうですね」
田中は、苦笑いに近い表情になる。
田中
「一番、何も変わってないの」
「最初から、関わらなかった人たちですよね」
佐伯
「事実です」
田中
「……ですよね」
沈黙。
空調の音。
遠くで、誰かが「お先に失礼します」と言う声。
田中
「……正直」
声が少し低くなる。
「あの時」
「黙ってる方が、楽でした」
佐伯は、手を止めない。
だが、否定もしない。
佐伯
「どの点が、楽だと感じましたか」
田中
「責任」
即答だった。
「何も言わなければ」
「何も背負わなくてよかった」
田中・心の声
(……言っちゃった)
(これ、言っていいやつかな)
佐伯
「はい」
それだけ。
責めない。
慰めない。
事実として受け取る。
田中
「……あの時」
「止めに入ったの、佐伯さんと僕だけでしたよね」
佐伯
「そうですね」
田中
「で、今」
「佐伯さんは評価下がって」
「僕は……なんか、ずっと気まずい」
田中
「でも」
一拍。
「見てただけの人は」
「何も失ってない」
田中
「……これ、変じゃないですか」
佐伯
「構造上は、自然です」
田中
「自然……?」
佐伯
「行動した人間は」
「記録に残ります」
「名前が残ります」
「判断が残ります」
佐伯
「何もしなかった人間は」
「記録に残りません」
田中
「……存在しなかったみたいに」
佐伯
「はい」
「最も安全な状態です」
田中は、椅子に深く座り直す。
肩が、少し落ちる。
田中
「……じゃあ」
「正しいことをした人間が」
「一番、損するんですか」
佐伯
「“損”という評価軸なら」
「そう見えます」
田中
「……」
田中は、しばらく黙る。
その沈黙は、逃げではない。
考えている音だ。
田中
「……正直」
「今日は」
「何もしなかった人たちが」
「一番、賢く見えました」
佐伯
「はい」
田中
「……佐伯さんは」
「そう思いませんか」
佐伯は、ようやく手を止める。
ペンを机に置く。
視線を田中に向ける。
佐伯
「私は」
「“安全”と“正しさ”を」
「同じ軸で評価していません」
田中
「……でも」
佐伯
「安全を選ぶことは」
「間違いではありません」
田中
「え」
佐伯
「ただし」
一拍。
「私は、それを業務として選びません」
田中
「……なんでですか」
佐伯
「安全は」
「守られる人がいないからです」
田中
「……」
佐伯
「何もしなければ」
「誰も傷つかないように見えます」
佐伯
「実際は」
「傷ついた人が」
「記録されないだけです」
田中の喉が、わずかに動く。
田中
「……じゃあ」
「今日、無傷だった人たちは」
佐伯
「無傷ではありません」
田中
「……え」
佐伯
「判断をしなかった、という痕跡が残っています」
田中
「……どこに」
佐伯
「本人の中に」
田中は、言葉を失う。
それは評価表には書かれない。
昇進にも影響しない。
だが、消えない。
田中
「……でも」
「正直」
「また同じことがあったら」
「僕、黙るかもしれません」
佐伯
「その選択も、可能です」
田中
「……佐伯さんは」
佐伯
「私は、止めます」
即答だった。
迷いがない。
田中
「……疲れませんか」
佐伯
「疲れます」
田中
「……ですよね」
佐伯
「ですが」
「疲れた理由が、明確です」
田中
「……何もしなかった疲れ、より?」
佐伯
「はい」
「理由のない疲労は、回復しません」
田中は、深く息を吐く。
少しだけ、肩の力が抜ける。
田中
「……今日は」
「黙ってた方が楽だった、って」
「本気で思いました」
佐伯
「はい」
田中
「……でも」
「それ、言えたの」
「ちょっとだけ、楽です」
佐伯
「それは」
「行動した人間の疲れです」
オフィス・夜
午後6時半。
佐伯は席を立つ。
田中
「……佐伯さん」
佐伯
「はい」
田中
「……明日」
「また何かあったら」
「僕、止められるか分かりません」
佐伯
「分からなくて構いません」
田中
「……え」
佐伯
「止めるかどうかは」
「その場で決めればいいです」
佐伯
「黙る選択も」
「止める選択も」
「どちらも、あなたの判断です」
田中
「……」
佐伯
「私は」
「止め続けます」
それだけ言って、佐伯はフロアを出る。
田中は、しばらく席に残る。
画面を閉じる前に、ふと気づく。
(……何もしなかった人の顔)
(今日、一度も思い出せない)
名前も、表情も、記憶に残っていない。
ナレーション
組織では、何もしなかった者が最も安全だ。
記録されず、責任も背負わず、疲弊もしない。
行動した人間だけが、名前と痕跡を残す。
ここは、コミュニケーション許可局。
佐伯ミナは今日、
行動する者だけが消耗する構造を、否定しなかった。
ただ、その中で止まり続けるという選択を、
一人で更新しただけだった。
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