第22話 記録は、誰を守るのか


オフィス・午前

午前9時12分。

フロアは静かだ。

静かすぎて、空調の風が「仕事の音」に聞こえる。

田中の席。

田中はチャット画面を見つめていた。

未読の通知が一つ。

【人事】本日10:30、ヒアリング(任意)

件名:業務上のコミュニケーションに関する確認

田中・心の声

(……任意、って書いてあるけど)

(任意じゃないやつだ)

隣の席。

佐伯ミナは、すでに記録用のフォルダを開いている。

画面の上部に、静かにファイル名が並ぶ。

事実整理_2025xxxx

ヒアリング記録_一次

是正案_選択肢A/B/C

証跡一覧(メール/チャット/議事)

田中・心の声

(……あの人、もう準備してる)

(何が起きるか、分かってるんだ)

会議室・午前

午前10時30分。

ガラス張りの小会議室。

ブラインド越しの光が、机の上に線を落とす。

参加者は四名。

人事担当(係長)

法務担当(主任)

第一企画部・佐藤課長

佐伯ミナ

田中は呼ばれていない。

「任意」は、田中だけに向けられた言葉だった。

人事担当

「本件、結論から言いますね」

「“是正”として処理します」

佐藤課長

「よかった」

息が抜ける。

「じゃ、これで終わりってことで」

法務担当

「終わりではありません」

淡々。

「“終わった形”にします」

空気が一段、冷える。

人事担当

「佐伯さん、記録出してもらえますか」

「時系列のやつ」

佐伯

「はい」

佐伯は、ノートではなく画面を開く。

文章は短く、乾いている。

4/12 15:04 佐藤課長「それくらい我慢」発言

4/12 15:06 田中、沈黙(反応記録なし)

4/12 15:21 田中、体調不良を申告(チャット証跡)

4/13 10:14 「悪気はない」発言(上長)

4/13 10:22 是正提案(表現修正/再発防止)

法務担当

「これですね」

「この“沈黙(反応記録なし)”が効きます」

佐藤課長

「え?」

「沈黙って……何が?」

法務担当

「本人が反論できない状態だった可能性を示せる」

「つまり、心理的安全性に欠陥があった、と」

人事担当

「組織としては、“認識して是正した”が大事です」

「この記録があると、外部に出た場合でも説明できます」

佐藤課長

「外部って……」

目が泳ぐ。

「そんな大ごとじゃ……」

人事担当

「大ごとにしないために、今ここで“履歴”を作ります」

“履歴”。

その言葉だけが、机の上に残る。

会議室・午前(続き)

人事担当

「対象者(田中さん)についてですが」

「配置転換を提案します」

佐伯

「確認します」

人事担当

「はい?」

佐伯

「配置転換は、本人の希望ですか」

一拍。

人事担当は、目線を資料に落としたまま答える。

人事担当

「“本人のケア”の観点です」

「環境を変えた方が回復が早い」

佐伯

「回復とは、何からの回復ですか」

法務担当

「……ストレスですね」

佐伯

「ストレスの原因は、是正対象として整理されていますか」

沈黙。

佐藤課長が、小さく咳払いをする。

人事担当

「整理されています」

「ただ、現実問題として——」

「同じ部署にいるのは、本人が辛いでしょう」

佐伯

「では、辛くない環境を作る責任はどこにありますか」

人事担当

「……佐伯さん」

声が少し硬くなる。

「ここ、議論の場ではなくて」

佐伯

「事実確認です」

法務担当

「……責任は組織です」

言うが、声に温度はない。

人事担当

「とにかく、方針はこれで」

「田中さんは、別部署へ」

「課長は“指導”扱い」

「再発防止研修を受ける」

「以上で是正完了です」

“完了”。

また言葉が確定してしまう。

佐藤課長

「……すみませんでした」

と言うが、誰に向けた謝罪かは分からない。

オフィス・午後

午後1時40分。

フロアに戻ると、田中が席にいる。

顔色が薄い。

田中

「……どうでした」

佐伯

「是正として処理されました」

田中

「……俺、助かりますか」

佐伯は一拍置く。

言葉を選ぶ、というより、定義を探す。

佐伯

「組織は守られます」

田中

「……俺は?」

佐伯

「あなたは、異動になります」

田中

「……え」

声が抜ける。

怒りでも泣きでもない。

ただ、空気が漏れる。

田中・心の声

(……俺が移るの?)

(なんで……)

(俺、悪くないのに)

佐伯

「確認します」

「異動は拒否できます」

田中

「……拒否したら?」

佐伯

「“回復に非協力的”と記録されます」

田中

「……」

黙る。

それが一番、正確な反応だった。

田中

「……結局」

「記録って、誰のためなんですか」

佐伯は、机の上に置いたフォルダを見た。

そこには、今日の会議で“証拠”になった文章が入っている。

誰かの痛みを写したはずの文字が、組織の盾として機能している。

佐伯

「記録は正しいです」

田中

「……正しいのに」

佐伯

「救済ではありません」

田中は笑いそうになって、失敗する。

目の奥だけが赤い。

田中

「……じゃあ、俺は」

「何だったんだろ」

佐伯

「当事者です」

即答。

「ですが、この手続きでは、当事者は結論の中心に置かれません」

田中

「……ひどいな」

佐伯

「はい」

否定しない。

慰めもしない。

ただ、整理する。

ナレーション

記録は、光を当てるためにある。

そう信じている人間ほど、驚く。

光は、当事者ではなく“組織の正しさ”を照らすことがある。

ここは、コミュニケーション許可局。

佐伯ミナは今日、正しい記録を残した。

だが守られたのは、誰かの人生ではなく、会社の「適切対応履歴」だった。

佐伯・心の声

(正しさは、用途を選べない)

(だから私は)

(用途まで、見なければならない)

田中は、異動の手続きを開く。

佐伯は、記録のフォルダに一行だけ追記する。

メモ

13:58

記録:証拠化

保護対象:組織

救済:未成立

そして、何事もなかったように、

キーボードの音が戻る。

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