第19話 “悪気はない”は免罪符か——佐伯、意図を切り離す


オフィス・午前

午前10時過ぎ。

フロアは、穏やかに動いている。

昨日の緊張は、

少しだけ和らいでいる。

その分、

油断が入り込む余地がある。

田中の席

田中は、

チャット画面を見つめていた。

送信済みのメッセージ。

「昨日の対応、

 ちょっと余裕なかったですよね笑

 でも社会人なんで、

 切り替えていきましょう!」

田中・心の声

(……あ)

(今の、

 まずかったか……?)

数分後。

背後から、

声が落ちる。

佐藤課長

「田中」

田中

「はい」

佐藤課長

「今のチャット」

一拍。

佐藤課長

「相手、

 ちょっと落ち込んでたぞ」

田中・心の声

(……え)

田中

「……すみません」

佐藤課長

「いや」

佐藤課長

「悪気はないのは、

 分かってる」

田中・心の声

(……悪気はない)

(それで、

 終わる……?)

数席離れた場所

佐伯ミナが、

静かに顔を上げた。

メモ

10:14

発言

「悪気はない」

用途:結果の軽視

影響:是正回避

佐伯、立ち上がる

佐藤課長の席

佐伯

「佐藤課長」

佐藤課長

「……何?」

佐伯

「“悪気はない”という評価について、

 確認させてください」

佐藤課長

「事実だろ?」

佐伯

「はい」

佐伯

「意図については、

 事実です」

佐伯、続ける。

佐伯

「ですが、

 意図と結果は

 別の評価軸です」

フロアが静まる。

佐藤課長

「……でも」

佐藤課長

「わざとじゃないなら、

 そこまで責めなくても」

佐伯

「責任の話は

 していません」

佐伯

「是正の話です」

田中・心の声

(……是正)

(怒られてない)

(でも、

 逃げられない……)

決定的な一言

佐伯

「“悪気はない”は、

 行為の免除理由には

 なりません」

佐藤課長

「……じゃあ、

 どう言えばいい?」

佐伯

「こうです」

佐伯

「“意図はなかったが、

 不快にさせた可能性がある”」

佐伯

「“次からは、

 この表現を避ける”」

佐伯

「それで、

 十分です」

佐藤課長、田中を見る。

佐藤課長

「……田中」

田中

「はい」

佐藤課長

「謝るとしたら、

 そうだな」

田中、深く息を吸う。

田中

「……意図はありませんでした」

一拍。

田中

「ですが、

 不快にさせた可能性があります」

田中

「次から、

 表現に気をつけます」

数秒の沈黙。

佐藤課長

「……それでいい」

相手側のチャット

数分後。

「ありがとうございます。

 そう言ってもらえると助かります。」

田中・心の声

(……通じた)

(言い訳じゃなく)

(説明だった……)

佐伯、席に戻る

何も言わない。

ただ、

メモを一行追加する。

メモ

10:22

「悪気はない」:免責不可

評価軸:結果

対応:是正


田中・ナレーション

この日、

僕は学んだ。

悪気がなかったことと、

傷つけなかったことは、

同じじゃない。

そして、

言い訳をやめた方が、

ずっと早く終わる。 


ナレーション

――ここは、コミュニケーション許可局。

“悪気はない”という言葉は、

人を庇うために使われる。

だが同時に、

結果から目を逸らすためにも

使われてきた。

悪気がなかった。

意図はなかった。

わざとじゃない。

それらはすべて、

行為の内側の話だ。

だが、

業務が扱うのは

行為の外側だ。

伝わったか。

傷ついたか。

支障が出たか。

そこに、

意図は関係しない。

佐伯ミナは、

人の心を裁かない。

だが、

結果を曖昧にもしない。

“悪気はない”という評価を、

人格の話としては認める。

しかし、

是正を免除する理由としては

一切、採用しない。

なぜなら、

悪意がなかったとしても、

同じ結果は

もう一度、起こり得るからだ。

業務が必要とするのは、

反省ではない。

改善だ。

彼女が求めたのは、

謝罪でも、

自己否定でもない。

意図と結果を切り離し、

次に同じことを起こさないための

具体的な言語だった。

ここは、コミュニケーション許可局。

佐伯ミナは今日、

誰かの優しさを疑わなかった。

ただ、

優しさを免罪符に

変換させなかっただけだった。

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