第18話 “それくらい我慢”は強制——佐伯、耐久を拒否する
オフィス・夕方。
午後17時20分。
窓の外は、少しずつ橙に傾いている。
一日の終わりが見えてきて、
フロアには疲労だけが残っていた。
田中の席
田中は、
肩を小さくすくめながらキーボードを打っていた。
背中が、固い。
田中・心の声
(……首、痛い)
(さっきから、ずっと……)
その背後から、声が落ちる。
佐藤課長
「田中」
田中
「はい」
佐藤課長
「さっきのクライアント対応さ」
「ちょっと強めだったけど――」
一拍。
佐藤課長
「それくらい、我慢しないと」
田中・心の声
(……我慢)
(でも……あれは……)
田中
「……はい」
佐藤課長
「社会人なんだから」
「多少のことは、飲み込まないと」
数席離れた場所で、
佐伯ミナが、静かにペンを置いた。
佐伯のメモ
17:23
発言:「それくらい我慢」
対象:業務上の苦痛
代替案:提示なし
佐伯は立ち上がり、
佐藤課長の席へ向かう。
佐伯
「佐藤課長」
佐藤課長
「……どうした?」
佐伯
「先ほどのご発言について、
確認させてください」
佐藤課長
「我慢の話?」
佐伯
「はい」
佐伯
「“それくらい”とは、
具体的にどの程度を指しますか」
一拍。
佐藤課長
「……常識的な範囲だよ」
佐伯
「その常識の定義を、
共有してください」
佐藤課長の表情が、わずかに曇る。
佐藤課長
「細かいな」
佐伯(淡々と)
「“我慢”は、業務行為ではありません」
田中・心の声
(……言った)
(それ、言っていいんだ……)
佐藤課長
「でもさ」
「耐えられないと、
この仕事、無理だろ」
佐伯
「耐久力は、
採用要件に明記されていますか」
佐藤課長
「……いや」
一瞬の沈黙。
佐伯(決定的に)
「記載されていない耐久を
求めることは、
業務範囲外です」
フロアが静まり返る。
誰も、口を挟まない。
佐藤課長は、ゆっくり息を吐いた。
佐藤課長
「……じゃあ、
どうすればいい?」
佐伯
「“我慢”ではなく、
調整してください」
佐伯
「負荷を下げる」
「役割を分ける」
「時間をずらす」
佐伯
「選択肢は、必ずあります」
佐藤課長は、田中の方を見る。
佐藤課長
「……悪かった」
「さっきの対応、
無理させたな」
田中
「……いえ」
佐藤課長
「今日は、
少し早く切り上げていい」
田中
「……ありがとうございます」
田中・心の声
(……初めてだ)
(“我慢しなくていい”って
言われたの……)
佐伯は、何も言わず席に戻る。
ただ、メモに一行だけ追加する。
佐伯のメモ
17:31
“我慢”要求:否定
代替:調整指示
業務影響:是正
田中・ナレーション
この日、僕は知った。
我慢できなかった自分が、
足りなかったんじゃない。
我慢を前提に
組まれた仕事が、
間違っていただけだった。
ナレーション
――ここは、コミュニケーション許可局。
“それくらい我慢”という言葉は、
優しさの仮面を被っている。
だが、その実態は単純だ。
問題を処理せず、
人に預けているだけだ。
我慢は、
業務行為ではない。
成果でも、
能力でも、
評価指標でもない。
それは本来、
設計ミスを覆い隠すために
個人に強いられる
非公式な負荷だ。
佐伯ミナは、
弱さを肯定しない。
強さも、称賛しない。
ただ、
耐久を前提に組まれた仕事を、
業務として認めない。
なぜなら、
耐えられたかどうかは
結果論でしかなく、
再現性がないからだ。
再現できないものは、
業務要件にならない。
彼女が行ったのは、
救済ではない。
励ましでもない。
“我慢しろ”という指示を、
“調整せよ”に置き換えただけだ。
ここは、コミュニケーション許可局。
佐伯ミナは今日、
誰かの限界を測らなかった。
ただ、
限界を前提にした設計を
業務から外しただけだった。
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