第17話 “暗黙の了解”は存在しない——佐伯、前提を破壊する
オフィス・午後
午後16時前。
フロアには、
一日の疲れが沈殿している。
誰も急がない。
だが、誰も帰れない。
田中の席
田中は、
送信済みメールを見つめていた。
件名:
【修正版】企画資料(最終)
田中・心の声
(……送った)
(今度こそ、
問題ないよな……)
数分後。
佐藤課長の声が、
フロアに落ちる。
佐藤課長
「田中」
田中
「はい」
佐藤課長
「この資料」
一拍。
佐藤課長
「“例の件”、
直ってないんだけど」
田中・心の声
(……例の件?)
(何だっけ……)
田中
「……恐れ入りますが、
どの部分でしょうか」
佐藤課長、少し不機嫌
佐藤課長
「暗黙の了解だろ」
フロアの空気が、
わずかに揺れる。
田中・心の声
(……暗黙)
(聞いてない……)
(でも、
また聞き返すのは……)
田中
「……申し訳ありません。
具体的にご指摘いただけますか」
佐藤課長
「だからさ」
「最初に話したじゃん」
田中
「……いつでしょうか」
佐藤課長、言葉に詰まる。
佐藤課長
「……まあ」
「普通、分かるよね」
数席離れた場所。
佐伯ミナは、
静かに顔を上げた。
メモ
15:56
修正指示
内容:不明
前提:暗黙
共有記録:なし
佐伯、立ち上がる。
佐藤課長の席。
佐伯
「佐藤課長」
佐藤課長
「……何?」
佐伯
「“暗黙の了解”について、
確認させてください」
佐藤課長
「またそれ?」
佐伯
「はい」
佐伯
「その了解は、
いつ、
誰と、
どのように
共有されましたか」
一拍。
佐藤課長
「……言わなくても、
分かると思ってた」
佐伯、淡々。
佐伯
「共有されていないものは、
了解ではありません」
田中・心の声
(……言った)
(それ、
ずっと思ってた……)
佐藤課長
「でもさ」
「今まで
それで回ってきたんだよ」
佐伯
「過去に機能したことと、
現在も有効であることは
別です」
決定的な一言。
佐伯
「“暗黙”は、
説明を怠った側の
後付け理由です」
静寂。
キーボードの音が、
一斉に止まる。
佐藤課長、
深く息を吐く。
佐藤課長
「……じゃあ、
どうすればいい?」
佐伯
「明文化してください」
佐伯
「文面で」
佐伯
「誰が読んでも
同じ理解になる形で」
佐藤課長、田中へ。
佐藤課長
「……悪い」
「俺の言い方が
曖昧だった」
「ここ」
「この数値の根拠を
一行、補足してほしい」
田中
「……はい」
田中・心の声
(……助かった)
(いや、
助けられたっていうより……)
(……前提が
壊れただけか)
佐伯、席に戻る。
何も言わず、
メモを一行追加する。
メモ
16:03
暗黙の了解:否定
対応:明文化
業務影響:是正
田中・ナレーション
この日、
僕ははっきり分かった。
分からなかった自分が
悪いんじゃない。
分かるはずだと
決めつけられていた。
それだけだった。
ナレーション
――ここは、コミュニケーション許可局。
“暗黙の了解”という言葉は、
説明を省略したいときに使われる。
だが、
共有されていないものは、
了解ではない。
言われていない。
書かれていない。
記録もない。
それは、
前提ではなく空白だ。
佐伯ミナは、
空白を想像で埋めない。
「分かるはずだった」という言葉を、
業務理由として認めない。
なぜなら、
了解とは本来、合意だからだ。
合意には、
言葉が必要で、
確認が必要で、
履歴が残る。
それがない限り、
“暗黙”は成立しない。
彼女が行ったのは、
批判でも是正でもない。
存在しない前提を、
存在しないものとして
処理しただけだ。
ここは、コミュニケーション許可局。
佐伯ミナは今日、
誰かのやり方を否定しなかった。
ただ、
曖昧な前提を
業務から削除しただけだった。
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