第12話 “みんな言ってる”は誰だ——佐伯、主語を問う


オフィス・午前

午前10時過ぎ。

フロアは、いつも通り静かだ。

キーボードの音。

プリンターの低い駆動音。

誰も、誰とも目を合わせない。

田中の席。

田中は、

画面を見ながら眉をひそめていた。

田中・心の声

(……まただ)

(修正点、

 前と同じじゃないか)

(誰が言ってるんだ……)

佐藤課長、接近。

佐藤課長

「田中」

田中

「はい」

佐藤課長

「この資料さ」

佐藤課長

「“みんな言ってる”んだけど」

一拍。

田中

「……え?」

佐藤課長

「構成がちょっと

 固すぎるって」

佐藤課長

「もう少し

 柔らかくした方がいい」

田中・心の声

(……みんな?)

(誰?

 いつ?

 どこで?)

(でも、

 聞き返せない……)

田中

「……わかりました」

そのやり取りを、見ている人がいた。

佐伯ミナは、

少し離れた席で、

手を止めた。

視線を上げる。

声は出さない。

だが、

記録は始まっていた。

メモ

10:18

修正指示

主語:不明

根拠:不明

責任所在:不明

数分後。

佐伯は、

静かに立ち上がる。

佐藤課長の席。

佐伯

「佐藤課長」

佐藤課長

「お、どうした?」

佐伯

「先ほどの指示について、

 確認させてください」

佐藤課長

「……指示?」

佐伯

「田中さんへの

 修正指示です」

佐藤課長、少し笑う。

佐藤課長

「ああ、あれ?」

佐藤課長

「別に深い意味じゃないよ」

佐伯

「“みんな言ってる”

 という表現についてです」

フロアの空気が、少し変わる。

佐藤課長

「……ああ」

佐藤課長

「まあ、

 周りの声っていうか」

佐伯

「具体的には、

 どなたですか」

一拍。

佐藤課長

「……いや」

佐藤課長

「そこは、

 別に名前出さなくても」

佐伯

「では、

 人数は把握していますか」

佐藤課長

「……いや」

佐伯、淡々と続ける。

佐伯

「発言は、

 いつ行われましたか」

佐藤課長

「……雑談の中で」

佐伯

「正式なレビューですか」

佐藤課長

「……いや」

佐伯、結論へ。

佐伯

「ではその指示は、

 “みんな”ではなく」

佐伯

「佐藤課長個人の

 主観的意見です」

佐藤課長、眉をひそめる。

佐藤課長

「……細かくない?」

佐伯

「いいえ」

佐伯

「主語が曖昧なままの指示は、

 是正対象です」

田中・心の声(遠くから)

(……始まった)

(でも……

 言ってくれてる……)

佐藤課長

「じゃあさ」

佐藤課長

「みんなって言い方が

 ダメだって言うの?」

佐伯

「“責任を持たない主語”が

 問題です」

佐伯

「“みんな”は、

 便利ですが」

佐伯

「誰も説明せず、

 誰も責任を取りません」

静寂。

空調の音だけが、

一定のリズムを刻む。

佐藤課長

「……でも」

佐藤課長

「空気ってあるだろ」

佐伯

「空気は、

 判断主体になれません」

決定的な一言。

佐伯

「“みんな言ってる”は、

 命令に見せかけた

 匿名の圧力です」

佐藤課長、息を吐く。

佐藤課長

「……じゃあ、

 どう言えばいい?」

佐伯

「こうです」

佐伯

「“私は、

 この点が気になりました”」

佐伯

「それなら、

 反論も説明も可能です」

田中の席。

佐藤課長が、

少しだけ視線をずらして言う。

佐藤課長

「……田中」

佐藤課長

「さっきの修正」

佐藤課長

「“俺が”

 少し固いと感じた」

田中

「……はい」

佐藤課長

「だから、

 一緒に調整しよう」

田中・心の声

(……全然、

 違う)

(さっきより、

 ずっと……)

佐伯、何も言わない。

ただ、

メモを一行、追加した。

メモ

10:31

主語:明確化

責任所在:特定

業務影響:改善


田中・ナレーション

この日、

僕は理解した。

“みんなが言ってる”と

言われた瞬間、

自分の仕事は、

誰のものでもなくなる。

でも、

“私はこう思う”と言われたら、

それは、

ちゃんと向き合える

仕事になる。 


ナレーション

――ここは、コミュニケーション許可局。

「みんな言ってる」は、

一見すると安全な言葉だ。

誰かを直接傷つけず、

自分も前に出ず、

空気だけを根拠にできる。

だがその言葉は、

責任の所在を溶かす。

誰が思ったのか。

誰が判断したのか。

誰が説明するのか。

そのすべてを曖昧にしたまま、

相手だけに修正を求める。

それは、

意見ではない。

合意でもない。

ただの匿名の圧力だ。

佐伯ミナは、

内容を否定しなかった。

修正の必要性も、

感じ方も、

切り捨ててはいない。

ただ、

主語を問うた。

「それは、誰の意見ですか」

「判断したのは、誰ですか」

主語が戻れば、

対話が成立する。

反論も、調整も、

責任も引き受けられる。

主語を失った言葉は、

人を動かすが、

誰も支えない。

ここは、コミュニケーション許可局。

佐伯ミナは今日、

誰かを追い詰めたわけではない。

奪われていた主語を、

元の持ち主に返しただけだった。

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