第9話 境界線は、憧れにも適用される
夕方。
アパート前。
仕事帰りの佐伯ミナが、
敷地入口で足を止めた。
自転車を押している少年がいる。
制服。
肩掛けバッグ。
少し擦れたスニーカー。
一郎(高2)。
大郷の息子だった。
一瞬、互いに視線が合う。
佐伯ミナ
「こんばんは」
一郎
「あ、どうも」
声は丁寧。
だが、目は探るようだった。
一郎
「……このアパート、
社会人の人も住むんですね」
探り。
確認ではない。
佐伯ミナ
「はい」
一郎
「へえ」
一拍。
一郎
「俺、二年です。
高校」
佐伯ミナ
「そうですか」
一郎
「母から聞きましたよ。
佐伯さん、
結構ちゃんとした会社なんですよね」
(来たな)
と、ミナは思う。
佐伯ミナ
「会社員です」
一郎
「どこでしたっけ」
佐伯ミナ
「東都総合ホールディングスです」
一瞬、
一郎の足が止まる。
(……大手)
一郎
「……へえ」
すぐに取り繕う。
一郎
「俺も、
そこそこなんで」
佐伯ミナ
「そうなんですね」
一郎
「この前の模試、
学年三位でした」
言い切り。
確認不要の宣言。
一郎
「正直、
この辺じゃ浮いてます」
(俺は違う)
(ここで終わる人間じゃない)
佐伯ミナ
「努力された結果ですね」
一郎
「……まあ」
少し、満足そう。
一郎
「……大学は?」
佐伯ミナ
「京都です」
――止まる。
一郎の呼吸が、
ほんの一拍だけ遅れる。
(……あ)
(俺が、
目指してる場所だ)
(“いつか抜け出す”って言ってる
その先にいる人間)
(このアパートの前に、
もう立ってる)
喉が、
きゅっと鳴る。
一郎
「……そうなんだ」
声が、
少しだけ低くなる。
(違う)
(羨ましいって言うと、
負けになる)
(でも、
見下すには近すぎる)
視線が、
一瞬だけ逸れる。
(母が黙るわけだ)
(俺の“未来像”が、
もうここにいる)
だが──
一郎は続けた。
一郎
「俺、
絶対にこの生活から抜けますから」
佐伯ミナ
「……」
一郎
「母にも楽させてやるし」
一郎
「出てった父親にも、
“見返した”って言わせます」
言葉が、
だんだん鋭くなる。
一郎
「だから――」
一郎
「今、ここにいる大人たちが
俺を見下すのも、
今のうちですよ」
沈黙。
佐伯ミナは、
足を止めた。
声を荒げない。
表情も変えない。
佐伯ミナ
「一つ、確認してもいいですか」
一郎
「……何ですか」
佐伯ミナ
「今の発言は、
私に向けたものですか」
一郎
「え……?」
佐伯ミナ
「“見下すのも今のうちだ”
という部分です」
一郎
「……まあ」
一郎
「社会って、
そういうもんでしょ」
佐伯ミナ
「いいえ」
即答だった。
佐伯ミナ
「少なくとも、
私は他人の生活を
評価対象にしていません」
一郎
「……」
佐伯ミナ
「誰かを見返すために
成功を目指すこと自体は、
否定しません」
一郎
「じゃあ――」
佐伯ミナ
「ただし」
一拍。
佐伯ミナ
「他人を下に置く発言は、
あなた自身の価値を
下げる行為です」
一郎の眉が、
わずかに動く。
佐伯ミナ
「成功したあとで
それを言えば、
ただの品性の問題になります」
佐伯ミナ
「成功する前なら、
自己不安の表明です」
一郎
「……」
刺さった。
佐伯ミナ
「どちらにしても、
私はその発言に
同意しません」
淡々と、
線を引く。
佐伯ミナ
「ここは、
職場ではありません」
佐伯ミナ
「でも、
相手を貶める前提の会話は、
受け取りません」
沈黙。
一郎は、
自転車のハンドルを
強く握った。
一郎
「……偉そうですね」
佐伯ミナは、
一拍置いた。
それから、
静かに言った。
佐伯ミナ
「ただ、
あなたは努力している」
佐伯ミナ
「それを
誰かを下に置く理由に
しなくていい」
一郎
「……」
佐伯ミナ
「このアパートから
出たいと思うなら」
佐伯ミナ
「まず、
ここにいる人間を
敵にしないことです」
一郎
「……は?」
佐伯ミナ
「味方にする必要もありません」
佐伯ミナ
「ただ、
線を越えなければいい」
それだけ言って、
ミナは歩き出した。
背中越しに、
最後の一言。
佐伯ミナ
「勉強、
続けてください」
佐伯ミナ
「結果は、
静かについてきます」
ドアが閉まる音。
アパート前。
一郎は、
しばらく動けなかった。
(……なんだよ)
(説教じゃない)
(でも、
逃げ場もなかった)
自転車を押しながら、
小さく呟く。
一郎
「……くそ」
だが、
その声には
先ほどまでの攻撃性はなかった。
ナレーション
――ここは、コミュニケーション許可局。
憧れは、
時に刃になる。
上を目指す気持ちは、
間違いではない。
今いる場所を嫌い、
抜け出したいと思うことも、
若さの特権だ。
だが、
その憧れが
誰かを下に置く言葉に変わった瞬間、
それは攻撃になる。
佐伯ミナは、
野心を否定しない。
努力も、焦りも、
未来を信じる衝動も否定しない。
ただ一つだけ、
受け取らないものがある。
他人を貶めることで
自分を高く見せようとする言葉。
成功は、
誰かを踏み越えなくても
辿り着ける。
そして、
憧れの対象に
敵意を向けた時点で、
距離は遠のく。
ここは、コミュニケーション許可局。
佐伯ミナは今日、
若さを諭したわけでも、
未来を否定したわけでもない。
ただ、
憧れの名を借りた
無断侵入を、
静かに拒否しただけだった。
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