第8話 “相談”は許可か——佐伯、愚痴を斬る
オフィス・夕方
午後五時三十分。
定時までは、あと三十分。
フロアの空気が、少しだけ緩む時間帯。
キーボードの音が減り、
椅子を引く音が増える。
仕事が終わりきらない者と、
気持ちだけが先に帰宅する者が、
同じ空間に混ざる時間。
田中は、
モニターを見つめたまま、
深く息を吐いた。
田中・心の声
……疲れた。
別に、
今日は何かされたわけじゃない。
怒られたわけでもない。
注意されたわけでもない。
ただ……
ずっと、気を遣っていた。
隣の席。
佐伯ミナは、
いつも通り静かに作業をしている。
書類を揃え、
チェックを入れ、
無駄な動きが一切ない。
田中・心の声
(……あの人なら)
(聞いてくれるかな)
(いや……)
(“無許可の感情共有”はダメだったな……)
田中は、
一度口を閉じ、
もう一度考えた。
そして、
椅子を少しだけ引いた。
田中
「……佐伯さん」
佐伯
「はい」
即答。
田中
「今……
少し、いいですか」
佐伯
「内容によります」
田中・心の声
(……この時点で
ハードル高い)
田中
「えっと……
“相談”です」
佐伯
「業務に関するものですか」
田中
「……半分、です」
佐伯の判断
佐伯ミナは、
ペンを置いた。
田中を見る。
佐伯
「確認します」
田中
「……はい」
佐伯
「解決を求めていますか」
田中
「……たぶん、
半分」
佐伯
「共感を求めていますか」
田中
「……たぶん、
半分」
一拍。
佐伯
「では、
それは“相談”ではありません」
田中
「……え」
佐伯
「“愚痴”です」
田中・心の声
(……愚痴)
(そんなつもりじゃ……
いや、そうか……)
田中
「……愚痴、
ダメですか」
声が、少し下がる。
佐伯
「ダメではありません」
佐伯
「ただし、
許可が必要です」
田中
「……愚痴にも?」
佐伯
「はい」
佐伯
「愚痴は、
感情の投棄です」
佐伯
「受け取る側の
精神的リソースを消費します」
佐伯
「無断で行えば、
それは侵害になります」
田中・心の声
(……言い方が
冷たい……)
(でも……
否定されてはいない……)
田中
「……じゃあ、
どうすれば……」
許可の手順
佐伯
「こう言ってください」
佐伯
「“今、愚痴を言ってもいいですか”」
田中
「……それだけ?」
佐伯
「はい」
佐伯
「相手が
“いいですよ”と言えば、
許可成立です」
佐伯
「“今は無理”と言われたら、
引き下がってください」
田中
「……そんなの、
冷たくないですか」
佐伯
「冷たいのではありません」
一拍。
佐伯
「誠実です」
田中の躊躇
田中は、
しばらく黙った。
フロアの向こうで、
誰かが
「お先に失礼します」と言う。
定時が、近い。
田中
「……じゃあ」
深く息を吸う。
田中
「今、
愚痴を言ってもいいですか」
佐伯の返答
佐伯ミナは、
一瞬だけ考えた。
ほんの、一瞬。
佐伯
「……今は、
五分なら可能です」
田中
「……ありがとうございます」
五分間の許可
田中
「……最近、
ずっと気を遣ってて」
田中
「誰が地雷か、
何がアウトか、
考えすぎて……」
田中
「仕事そのものより、
“考えること”に
疲れてます」
佐伯は、
相槌を打たない。
否定もしない。
ただ、聞く。
田中
「……前は、
何も考えずに
話してたんですよ」
田中
「それが、
良くなかったって
わかってるんですけど……」
田中
「……正直、
寂しいです」
佐伯の応答(共感しない共感)
佐伯
「状況は理解しました」
田中
「……それだけ?」
佐伯
「はい」
佐伯
「私は、
あなたの感情を
評価しません」
佐伯
「ただ、
事実として把握しました」
五分終了
佐伯は、
時計を見る。
佐伯
「五分、経過しました」
田中・心の声
(……終わりか)
(でも……
不思議と……)
田中
「……少し、
楽になりました」
佐伯
「それは、
許可されたからです」
田中
「……許可、
大事ですね」
佐伯
「はい」
佐伯
「無許可の感情は、
相手を疲弊させます」
佐伯
「ですが、
許可された感情は、
管理可能です」
田中・ナレーション
この日、
僕は知った。
「聞いてほしい」は、
要求であって、
権利ではない。
そして、
ちゃんと許可を取れば、
感情は
誰かを傷つけずに
置いていけるのだと。
ナレーション
――ここは、コミュニケーション許可局。
愚痴は、
弱さではない。
だが、
投げ方を間違えれば、
それは刃になる。
「聞いてほしい」という気持ちは、
自然だ。
誰にでも、ある。
だがそれは、
自動的に受け取られるものではない。
感情は、
共有できる。
しかし、
無断で置いていくことはできない。
佐伯ミナは、
愚痴を否定しない。
疲れも、寂しさも、
存在そのものは否定しない。
ただ、
受け取る側の許可が必要だ
という一点だけを、
譲らない。
共感は、
義務ではない。
聞くことも、
責任ではない。
だからこそ、
許可を取った感情だけが、
人を壊さずに残る。
ここは、コミュニケーション許可局。
佐伯ミナは今日、
誰かの弱さを切り捨てたわけではない。
ただ、
感情の置き場所を
正確に指定しただけだった。
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