第7話 それはハラスメントではない——佐伯、線を引かない

オフィス・午前

午前10時。

フロアは相変わらず静かだった。

誰も大声で笑わない。

誰も雑談を長引かせない。

沈黙が、社訓より先に空気を支配している。

佐伯ミナは席に着き、

PCを起動し、

メールを一通ずつ処理していた。

淡々。

必要最小限。

――そのとき。

隣の島の端、コピー機の前で、

小さな声が弾けた。

新人女性・小林 24歳

小林は、まだ“会社”の空気に馴染めていない顔をしていた。

髪は整っている。

制服のようなスーツも着ている。

でも、肩がいつも少し上がっている。

課長代理(30代)

「小林さん。ここ、違う。

 資料の体裁、社内規程に合わせて」

小林

「……すみません」

課長代理

「“すみません”じゃなくて、次。

 締切、今日の12時だから」

声は普通。

語気も普通。

ただ、速い。

小林の目が、一瞬揺れた。

小林・心の声

(……怖い)

(今の言い方、きつくない?)

(でも、これ言ったら私が“弱い”って思われる)

(……佐伯さんなら、わかってくれるかも)

小林は、視線を泳がせ、

フロアの“安全そうな人”を探した。

そして見つける。

――佐伯ミナ。

笑わない。

群れない。

誰にも寄らない。

でも、誰の言葉も乱さない。

小林は、決意した。

給湯室・短い避難所

昼前。

給湯室には、湯が沸く音だけがある。

小林は紙コップを両手で包み、

佐伯に近づく。

小林

「あの……佐伯さん。今、少し……いいですか」

佐伯

「はい」

即答。

小林

「さっき、課長代理に……注意されたんですけど」

佐伯

「はい」

小林

「……あれって、ハラスメントですよね?」

小林の声は、震えていない。

むしろ、早い。

“正しい答え”を急いでいる。

佐伯の沈黙

佐伯ミナは、コーヒーを注ぐ手を止めない。

一拍。

二拍。

小林は、その沈黙を

「同意」だと思い始める。

小林(焦って付け足す)

「なんか……“すみません”じゃなくて次、とか」

「締切を理由に急かすのって、圧ですよね?」

「私、まだ新人なのに……」

「……心が折れそうで」

佐伯はコーヒーを注ぎ終え、

紙コップを置いた。

そして、小林を見る。

視線は責めない。

ただ、正確だ。

佐伯

「確認します」

小林

「はい……」

佐伯

「注意内容は、業務上の事実ですか」

小林

「……はい。形式、間違ってました」

佐伯

「締切は実在しますか」

小林

「……はい。今日です」

佐伯

「人格否定はありましたか」

小林

「……え?」

佐伯

「“無能”“向いてない”“邪魔”など」

小林

「……それは……言われてません」

佐伯

「侮辱、嘲笑、身体的接触、私的な評価は」

小林

「……ないです」

小林・心の声

(……あれ?)

(じゃあ、これは……)

佐伯

「では」

一拍。

佐伯

「それは、ハラスメントではありません」

小林

「……え」

声が、抜ける。

小林

「でも、怖かったんです」

佐伯

「恐怖は、事実です」

佐伯

「ただし」

佐伯

「恐怖=違反、ではありません」

小林の反発

小林

「じゃあ……“嫌だ”って思ったら、全部我慢なんですか?」

「新人って、そういうものなんですか?」

佐伯は、首を振らない。

否定も肯定もしない。

佐伯

「我慢ではありません」

「整理です」

佐伯

「業務指示が“適正”である限り、

 それは必要な行為です」

佐伯

「ただし、別の論点はあります」

小林

「……別の?」

佐伯

「教育の方法です」

佐伯

「その課長代理の指導は、

 効率的ですが、丁寧ではない」

佐伯

「しかし“丁寧でない”ことは、

 必ずしも違反ではありません」

小林・心の声

(……違反じゃない)

(でも、つらい)

(つらいのに、違反じゃない)

小林

「……じゃあ、どうすればいいんですか」

佐伯

「選択肢はあります」

小林

「……!」

佐伯

「まず、“ハラスメント”として訴えるのは不適切です」

小林の顔が、こわばる。

佐伯

「その言葉は強い」

「強い言葉を使うと、

 あなたの信用も削れます」

小林

「……信用……」

佐伯

「はい」

佐伯

「代わりに、こう言ってください」

佐伯

「“指示は理解しました。

 ただ、言い方が速くて焦るので、

 要点だけ箇条書きで指示いただけますか”」

小林

「そんな……言えるかな」

佐伯

「言えないなら、メモを取ってください」

佐伯

「そして、確認してください」

佐伯

「“今の指示は、AとBで合っていますか”と」

小林

「……それ、怒られませんか」

佐伯

「怒られる可能性はあります」

小林

「え……」

佐伯

「ですが」

佐伯

「怒られることと、侵害されることは別です」

空気が少しだけ変わる

給湯室の湯気が、

ゆっくり天井に吸われていく。

小林の肩が、わずかに下がった。

小林

「……佐伯さんって、なんか……冷たいですね」

言ったあと、すぐに後悔した顔をする。

だが、佐伯は表情を変えない。

佐伯

「冷たいのではありません」

一拍。

佐伯

「線を間違えると、

 本当に苦しい人が救われなくなります」

小林

「……」

佐伯

「“ハラスメント”は、便利な言葉です」

佐伯

「便利だからこそ、

 乱用すると“制度”が死にます」

小林

「制度……」

佐伯

「はい」

佐伯

「あなたが本当に侵害されたとき、

 誰も信じてくれなくなります」

小林・心の声

(……守られたい、って思った)

(でも、守られるためには、

 言葉をちゃんと使わなきゃいけないのか)

小林

「……わかりました」

「訴えるんじゃなくて……整理する」

佐伯

「はい」

小林

「……佐伯さん、ありがとう」

佐伯

「どういたしまして」

一拍。

佐伯

「今のは、業務相談です」

小林

「……はい」

佐伯

「感情の共有ではありません」

小林

「……はい」

小林は、少しだけ笑った。

それは、許可された笑顔だった。

フロアへ戻る

小林は席へ戻る。

課長代理が、また速い口調で言う。

課長代理

「小林さん、さっきの資料、直った?」

小林

「はい。直します。

 すみません――じゃなくて、次ですね」

課長代理

「……そう。次」

小林

「あと、確認なんですが」

小林

「締切までに必要な修正点を、

 箇条書きでいただけますか。

 焦って抜けが出るのが怖くて」

課長代理は、一瞬止まる。

課長代理

「……わかった。送る」

小林

「ありがとうございます」

田中・心の声(遠目に見て)

(……え)

(今の、戦った……?)

(いや、戦ってない)

(……整えただけだ)

 

ナレーション

――ここは、コミュニケーション許可局。

すべてが、

ハラスメントになるわけではない。

怖かったことと、

侵害されたことは、

同じではない。

不快だったことと、

違反だったことも、

一致しない。

佐伯ミナは、

“線を引く人”だと思われている。

だが実際には、

彼女は

引くべき線と、引かない線を分けている。

線を引けば、

人は守られる。

だが、

引きすぎれば、

制度が壊れる。

便利な言葉は、

便利なぶん、

使い方を間違えると

本当に苦しい声を

埋もれさせる。

だから彼女は、

感情を否定しない。

ただ、

違反に変換しない。

怖さは、

事実だ。

だが、

恐怖だけでは

是正は始まらない。

ここは、コミュニケーション許可局。

ここでは、

守るために

“戦わない”判断も存在する。

佐伯ミナは今日、

誰かを突き放したわけではない。

ただ、

本当に必要なときのために、

制度を温存しただけだった。

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