第6話 見ているだけ、のはずだった
オフィス・午後
午後のフロアは静かだった。
キーボードの音。
空調の低い唸り。
時計の秒針が刻む、一定のリズム。
田中の画面は止まっている。
カーソルだけが、点滅していた。
何も入力されないまま、
時間だけが進んでいく。
佐伯ミナは、何も言わない。
声もかけない。
視線も向けない。
代わりに、
手元のメモ帳を開いた。
14:12
業務停止 約3分
視線逸脱 複数回
指示後も改善なし
感情:記載なし
佐伯は、
淡々と書き終えると、
メモ帳を閉じた。
佐藤課長の席
佐伯は、
必要以上に近づかない距離で立ち止まる。
佐伯
「佐藤課長。
業務報告をよろしいでしょうか」
佐藤課長
「お、どうした?」
佐伯
「田中さんの業務が、
私的要因により断続的に停止しています」
佐藤課長
「……私的要因?」
佐伯
「詳細は、こちらです」
メモを差し出す。
佐藤課長は目を通し、
眉をひそめた。
佐藤課長
「……視線?」
佐伯
「はい。
視線の逸脱が原因で、
作業が進行していません」
佐藤課長
「……それ、
注意した方がいいか?」
佐伯
「判断は、
課長にお任せします」
一拍。
佐伯
「私の立場では、
是正を求める権限がありませんので」
佐藤課長・心の声
(……新人なのに)
(線は引く。
でも、踏み越えない)
(……厄介だな。
だが、正しい)
佐藤課長は、
田中の席へ向かう。
佐藤課長
「田中。
集中切れてるぞ」
田中
「……すみません」
佐藤課長
「理由は言わなくていい。
仕事に戻れ」
田中は、
深く頷いた。
田中・心の声
(……助けられたのか)
(……締められたのか)
(どっちだ……)
社員食堂・昼
昼休み。
社員食堂は、
昼特有のざわめきに包まれている。
トレイがぶつかる音。
箸の触れる音。
どこかで笑い声が弾む。
田中は、
味のしない定食を前に座っていた。
田中・心の声
……あれ。
俺、怒られたんだよな。
でも、
佐伯さんからは、
一言も言われてない。
注意したのは課長。
なのに。
胸の奥に、
まだ何かが残っている。
向かいの席に、
佐伯ミナが座る。
トレイには、
ご飯、味噌汁、焼き魚。
余分なものはない。
田中は、
箸を持ったまま迷った。
(……今、
話しかけていいのか?)
(いや……
無許可はまずいよな……)
一拍。
田中は、
意を決して声を出した。
田中
「……佐伯さん」
佐伯
「はい」
即答。
拒否でも、
歓迎でもない。
田中
「さっきの件……
その……」
言葉を探す。
田中
「……すみませんでした」
佐伯の反応
佐伯ミナは、
箸を止める。
田中を見る。
ただ、それだけ。
佐伯
「何についての謝罪ですか」
田中・心の声
(……来た)
(ここ、
曖昧にしたら
また地雷だ)
田中
「……仕事に集中できていなかったことです」
佐伯
「はい」
短い肯定。
佐伯
「その点については、
改善されれば問題ありません」
田中
「……怒ってないんですか?」
佐伯
「怒る理由がありません」
田中・心の声
(……え)
(じゃあ、
あの重さは
何だったんだ……)
田中
「……じゃあ、
嫌だったとか……
そういう……」
言葉が、途中で止まる。
佐伯
「私の感情は、
今回の件の論点ではありません」
一拍。
佐伯は、
淡々と続ける。
佐伯
「業務が止まった」
佐伯
「原因があった」
佐伯
「上長に共有した」
佐伯
「それだけです」
田中・心の声
(……それだけ)
(それだけ、
なのか……)
田中
「……でも、
直接言わずに……」
佐伯
「はい」
佐伯
「私は、
あなたの上司ではありません」
佐伯
「是正を求める権限も、
指導する立場でもない」
佐伯
「だから、
報告しました」
決定的な一言
田中は、
ぽつりとこぼす。
田中
「……正直、
直接言われた方が
楽でした」
佐伯は、
少しだけ考える。
ほんの一瞬。
佐伯
「それは、
あなたが
“感情で処理できる”からです」
田中
「……え?」
佐伯
「感情で怒られれば、
感情で反省できます」
佐伯
「ですが今回は、
行動だけが問題になりました」
田中・心の声
(……逃げ場が、
ない……)
佐伯
「私は、
あなたを評価していません」
佐伯
「嫌いでも、
不快でもありません」
佐伯
「ただ、
業務上の逸脱を
記録しただけです」
静かな理解
田中は、
箸を置いた。
冷めかけた味噌汁を、
一口すすった。
……まだ、
わずかに温度は残っていた。
食堂のざわめきが、
少し遠くなる。
田中・心の声
(……これか)
(これが、
“怒られない怖さ”か)
田中
「……気をつけます」
佐伯
「はい」
それだけ。
佐伯は、
再び食事に戻る。
魚の骨を、
一本ずつ丁寧に外しながら。
田中・ナレーション
この日、
僕は初めて知った。
怒られないことが、
必ずしも
許されたことではないと。
そして、
直接殴られるより、
線を引かれる方が
ずっと効くことを。
ナレーション
――ここは、コミュニケーション許可局。
問題は、
怒ったかどうかではない。
見ていたかどうかでもない。
問題になるのは、
何が起き、
それが
どう処理されたかだ。
佐伯ミナは、
叱らなかった。
助言もしなかった。
感情で踏み込むことを、
最初から選ばなかった。
彼女がしたのは、
事実を記録し、
権限のある場所へ
正しく返したことだけだった。
そこには、
同情も、
失望も、
期待もない。
だからこそ、
逃げ場がなかった。
怒られれば、
反省できる。
慰められれば、
立て直せる。
だが、
感情を使わない是正は、
行動だけを残す。
言い訳も、
情状も、
意味を持たない。
ここは、コミュニケーション許可局。
ここでは、
人は裁かれない。
人格も、
感情も、
評価されない。
残るのは、
行動と、
次にどうするかだけだ。
佐伯ミナは今日も、
誰かを追い詰めたわけではない。
ただ、
逃げ道を
用意しなかっただけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます