第5話 感情は業務外です
第一企画部の朝は、静かだった。
キーボードの音。
紙をめくる音。
誰も、大きな声を出さない。
それが、この部署の“平和”だった。
午前九時十二分。
佐伯ミナは、淡々と資料を読んでいた。
そこへ、斜め前の席から声が飛ぶ。
佐藤課長
「おはよう!
いや〜今日は寒いね!
佐伯さん、体調大丈夫?」
周囲の手が、一瞬止まる。
雑談だ。
善意だ。
よくあるやつ。
ミナは、顔を上げた。
佐伯ミナ
「業務に支障はありません」
一拍。
佐藤課長
「え、あ、そうじゃなくて……
ほら、気遣い、気遣い」
ミナ
「確認します」
佐藤課長
「……え?」
ミナ
「今の発言は、
業務上の確認ですか」
空気が、わずかに重くなる。
佐藤課長
「いや、雑談だけど……
別に深い意味は……」
ミナ
「では、私の体調について
把握する必要性はありますか」
佐藤課長
「……いや……」
ミナ
「ありがとうございます」
そう言って、再び資料に視線を落とす。
数秒。
誰も、声を出さない。
社員A(心)
(え……今の……
ただの挨拶じゃ……)
社員B(心)
(でも確かに……
体調って、聞かれる理由あるか……?)
佐藤課長は、乾いた笑いを作った。
佐藤課長
「はは……
いや、佐伯さんは真面目だなぁ」
ミナは、顔を上げる。
佐伯ミナ
「評価でしょうか」
佐藤課長
「え?」
ミナ
「それは、
業務上の評価ですか
感情表現ですか」
沈黙。
佐藤課長
「……あ、いや……
ただの感想……」
ミナ
「感想でしたら、
受領は任意です」
佐藤課長
「……」
社員C(小声)
「……こわ……」
社員D(小声)
「ハラスメントモンスター……」
その言葉は、
確かに聞こえた。
ミナは、反応しない。
――昼休み。
給湯室。
女子社員二人が、小声で話している。
女子社員A
「ねえ……
あの人さ、ちょっと異常じゃない?」
女子社員B
「雑談すら許されないって、
息詰まるんだけど」
ミナは、カップにお茶を注いでいた。
静かに、振り返る。
佐伯ミナ
「確認します」
女子社員A
「ひっ……」
ミナ
「今の発言は、
私に対する評価ですか」
女子社員B
「え……あ……」
ミナ
「評価であれば、
根拠をお願いします」
女子社員A
「……ちが……
ただの愚痴……」
ミナ
「では、
第三者の人格を
業務外で共有する理由は何ですか」
女子社員B
「……」
ミナ
「業務時間内であれば、
ハラスメント該当性の
検討対象になります」
二人は、言葉を失う。
ミナは、淡々と続けた。
佐伯ミナ
「なお、
雑談そのものを否定しているわけではありません」
女子社員A
「……え?」
ミナ
「雑談は、
参加者全員の合意がある場合に限り
成立します」
ミナ
「私は、
合意していませんでした」
その場に、
完全な沈黙が落ちる。
ミナは、お茶を持って去っていった。
午後。
第一企画部のフロアは、
いつもより静かだった。
雑談が、消えた。
代わりに、
必要な報告
簡潔な相談
業務に関係する会話
だけが、残った。
社員B(心)
(……仕事は、
やりやすくなった気がする……)
社員A(心)
(でも……
あの人、やっぱ怪物だろ……)
定時前。
佐藤課長が、恐る恐る声をかける。
佐藤課長
「……佐伯さん」
ミナ
「はい」
佐藤課長
「その……
今日は……
ありがとう」
ミナ
「何に対する感謝ですか」
佐藤課長
「……えっと……
空気を……
引き締めてくれて……」
ミナ
「業務改善の評価であれば、
受領します」
佐藤課長
「……あ、はい……
それで……」
ミナ
「承知しました」
ナレーション
――ここは、コミュニケーション許可局。
感情は、
存在すること自体が問題なのではない。
問題になるのは、
その感情が
「共有される前提」で
他人に差し出されることだ。
気遣い。
雑談。
感想。
評価。
それらはすべて、
善意の顔をして
無断で侵入してくる。
佐伯ミナは、
感情を否定しなかった。
人を嫌ったわけでもない。
ただ、
業務に必要なものと、
必要でないものを
区別しただけだった。
区別された瞬間、
感情は力を失う。
そして人は、
それを「冷たい」と呼ぶ。
だが、
冷たさではない。
それは、
境界線だ。
ここは、コミュニケーション許可局。
感情は、
業務外に置かれる。
置かれた感情は、
否定も裁きもされない。
ただ、
仕事には持ち込めない。
それだけの話だ。
佐伯ミナは今日も、
誰かを傷つけたわけではない。
許可のない感情を、
通さなかっただけだった。
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