第4話 「佐伯ちゃん」と呼んだら詰んだ話

オフィス休憩スペース・昼。

昼休み。

コーヒーマシンが低く唸り、

紙コップから湯気が立ち上る。

空調は一定。

感情だけが、行き場を失って漂っている。

佐藤課長(40代・陽キャ・声量多め)

「おっ、佐伯ちゃん!」

その一言が、

空間を切り裂いた。

「キリッとしてるねぇ〜。

 新人にこんな美人来るなんて、

 会社も運がいいよな!」

田中・心の声

(……あ)

(……言った)

(はい、死亡フラグ成立)

(何かしらの地雷、

 今、踏みましたね佐藤課長)

佐伯ミナは、

コーヒーを注ぐ手を止めなかった。

振り向かず、

声だけを置く。

佐伯

「アウトです」

佐藤課長

「……え?

 え、何が?」

佐伯

「チャンハラです」

一拍。

空調が、

自動で「ピッ」と音を立てる。

佐藤課長

「……は?」

佐伯

「“親しくない相手から、

 許可なく“ちゃん付け”をされ、

 心理的負担を受けるハラスメント”です」

田中・心の声

(チャンハラ……

 またすごいの出てきたな)

佐藤課長

「いやいや、

 悪気なんてないよ?」

「ただフレンドリーなだけでさ」

佐伯

「悪意の有無は、

 成立要件ではありません」

一拍。

佐伯

「相手が不快であれば、

 それは成立します」

田中・心の声

(法律番組より

 論点整理が早いの、怖い)

佐藤課長

「そこまで、

 言うことかなぁ……?」

佐伯

「ええ」

間髪を入れず。

佐伯

「“親しくない男性から

 ちゃん付けをされ続け、

 精神疾患を発症。

 慰謝料請求が認められた判例”があります」

佐伯

「距離感の押し付けは、

 現在では

 精神的侵害と判断され得ます」

空気が、完全に止まる。

コーヒーの湯気だけが、

取り残される。

田中・心の声

(距離感……

 暴力……)

(昨日まで

 “親しみ”って呼ばれてたやつが、

 今日、犯罪予備軍になってる……)

佐藤課長

「……好意も、

 ダメなのか?」

佐伯

「好意そのものは、

 否定していません」

一拍。

佐伯

「ただし」

佐伯

「好意も親しさも、許可制です」

田中

(思わず、心の中で)

……恋も友情も、

絶滅危惧種だな。

まさか職場で

**“感情の許可制”**に出会うとは……。

佐伯

(振り向かず)

「無許可の親しみは、

 有害です」

静寂。

空調の風が、

わずかにカーテンを揺らす。

休憩スペースの田中に逃げるように、

佐藤課長。

佐藤課長

「……佐伯さんさ」

少し苦笑いを浮かべて。

「なんかもう、

 コンプライアンスの

 六法全書が歩いてるみたいだよ」

「うちの会社、

 法務省に出向でも

 受け入れてたっけ?」

田中・心の声

(六法全書って

 歩くんだ……)

(いや、

 歩いてるわ。目の前で)

田中

(乾いた笑みで)

「課長、

 僕なんて初日に告白しただけで

 “コクハラです”って

 一刀両断されましたからね」

「フラれるだけでも

 十分刺さるのに、

 説教までフルセットで」

「まだ名札のインク、

 乾ききってないですよ?

 あれ」

二人、

無言でコーヒーをすすり、

同時にため息をついた。

佐藤課長

「……まあ、時代だな」

「お互い、

 感情より

 コンプライアンス重視でいこう」

「自分も、相手も、

 傷つけないように」

田中

(目を伏せて)

「……心は、

 もう傷だらけですけどね」

佐藤課長

(やれやれと笑い)

「にしてもさ」

「初日に同僚へ告白する君も、

 なかなかだぞ」

「その勇気、

 別ベクトルで危険物だ」

田中

(遠くを見る目)

「若さって、

 時に刃物ですよね」

「自覚がないぶん、

 なおさら」

コーヒーの湯気だけが、

まだ温かい。

 

ナレーション

――ここは、コミュニケーション許可局。

親しさは、

呼び方で成立するものではない。

距離は、

縮めたい側の希望では決まらない。

共有されて初めて、

関係になる。

善意も、冗談も、

フレンドリーという言葉も、

無断で使えば、

侵入になる。

問題は、

悪気があったかどうかではない。

相手が、

その距離を許可していたかどうかだ。

佐伯ミナは、

怒らなかった。

笑いもしなかった。

相手の人格にも、

一切触れなかった。

ただ、

「許可がなかった」

その一点だけを、

提示した。

それだけで、

会話は成立しなくなる。

ここは、コミュニケーション許可局。

親しみは、

与えるものではない。

受け取られて初めて、

存在できる。

佐伯ミナは今日も、

誰かを罰したのではない。

無断で踏み込まれた距離を、

拒否しただけだった。

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