第3話 境界線は、生活にも適用される
引っ越しから一週間後──新しい生活
(入社式の翌日)
夕方。
入社式を終えた翌日。
佐伯ミナは、
会社から少し離れた住宅街に立っていた。
古いけれど、手入れの行き届いたアパート。
築年数はそれなりだが、
共用部分に埃はなく、
「管理されている空気」だけがある。
二階の廊下に、
段ボールが積まれている。
佐伯ミナは、その前で鍵を回した。
ドアが開く。
室内は、まだ殺風景だった。
カーテンも、机も、最低限。
生活に必要な機能だけが、
静かに配置されている。
インターホンが鳴った。
母
「ミナ? 届いたわよ」
玄関を開けると、
母が大きな段ボール箱を抱えて立っていた。
母
「実家から。
お米と、冷凍の作り置きと……
あと、あんた好きだったお味噌」
佐伯ミナ
「ありがとうございます」
ミナは淡々と受け取る。
母は、靴を脱がずに、
少しだけ室内を見回した。
母
「……ちゃんと、やれてる?」
佐伯ミナ
「生活に支障はありません」
母
「そう」
それ以上、踏み込まない。
それが、
二人の距離だった。
嫌味な住人・大郷
(マウンティングの開始)
母を見送った直後、
廊下の向こうから声がかかった。
大郷
「あら、新しく越してきた人?」
年配の女性。
整えすぎた髪。
きっちりした服装。
探るような目。
大郷
「大郷です。
ここ、長いのよ。
何かあったら言って」
善意の顔。
だが視線は、
明らかに値踏みしていた。
大郷
「そういえば、
うちの息子ね」
(来た、と思った)
大郷
「高2なんだけど、
偏差値は高めなのよ」
一拍。
様子を見る目。
大郷
「○○高校なの。
知ってる?」
提示。
確認ではない。
大郷
「この前の模試でね、
学年三位だったのよ」
胸を張る。
(……言えた)
大郷の心の声。
(やっぱりね)
(このくらい言うと、
ちゃんと驚くのよ)
(息子、優秀)
(私、勝ち)
快感が、
ゆっくり広がる。
だが──
佐伯ミナは、
驚かなかった。
佐伯ミナ
「そうなんですね」
それだけだった。
(……あれ?)
(反応、薄くない?)
一瞬の違和感。
それを打ち消すように、
大郷は話題を変える。
大郷
「……で、
あなたは?」
佐伯ミナ
「はい」
大郷
「お仕事は?」
佐伯ミナ
「会社員です」
大郷
「へえ。
どんな会社?」
佐伯ミナ
「東都総合ホールディングスです」
――止まる。
一瞬、
大郷の表情が固まる。
(……大手?)
(あら……エリート?)
さっきまでの快感が、
音を立てて冷めていく。
間を取り繕うように、
それでも聞く。
大郷
「……大学は?」
佐伯ミナ
「京都です」
完全な沈黙。
(……あ)
(ここ、
もう出番ないやつ)
佐伯ミナ(心)
(だいたい、
この辺で黙る)
大学で、
何度も見た反応だった。
人は、
勝てないかもしれない相手を前にすると、
急に距離を取る。
佐伯ミナ(心)
(……静かな生活になりそう)
それは願望ではなく、
予測だった。
翌朝──ゴミ置き場
(愛想が消え、当たりが強くなる)
翌朝。
ゴミ置き場。
大郷が、
腕を組んで立っていた。
昨日とは違う。
笑顔が、ない。
大郷
「佐伯さん」
佐伯ミナ
「何でしょう」
大郷
「ゴミの分別、
ちゃんと見てる?」
佐伯ミナ
「確認しています」
声が、硬い。
大郷は、
一つ一つ説明を始めた。
大郷
「これは可燃。
これは不燃。
プラスチックは――」
佐伯ミナ
「承知しています」
昨日までの「世間話」はない。
大郷
「それでね」
大郷は、
置かれたゴミ袋を指差した。
大郷
「この未回収のゴミ。
あなたが出したんじゃない?」
ミナは、袋を見る。
見覚えはない。
佐伯ミナ
「知りません」
大郷
「でも、新しい人だし」
大郷
「一番、怪しいじゃない?」
論破の開始
(相手が悪かった)
ミナは、
静かに息を吸った。
佐伯ミナ
「確認します」
大郷
「……何を?」
佐伯ミナ
「そのゴミが、
私のものであると
推定した根拠を教えてください」
大郷
「え……だって……」
佐伯ミナ
「“新しいから”
以外の根拠はありますか」
沈黙。
佐伯ミナ
「指紋、
防犯カメラ、
立ち会い証言」
佐伯ミナ
「いずれも、
存在しませんね」
大郷
「そんな大げさな……
ご近所なんだから――」
佐伯ミナ
「“ご近所”は、
責任の根拠になりません」
決定打
苛立ちが、
隠れなくなる。
大郷
「でも、
ちゃんと説明してあげてるでしょ」
大郷
「親切なの!」
即答。
佐伯ミナ
「その親切は、
私が求めましたか」
大郷
「……え?」
佐伯ミナ
「求めていない説明を
一方的に与える行為は、
過干渉に該当します」
佐伯ミナ
「さらに、
根拠のない疑いを向ける行為は、
人格否定を伴う可能性があります」
大郷の顔が赤くなる。
大郷
「ただの注意じゃない!」
佐伯ミナ
「注意は、
事実確認と合意が前提です」
佐伯ミナ
「今回は、
どちらも満たしていません」
静かな決着
沈黙。
周囲の住人が、
遠巻きに見ている。
佐伯ミナ
「今後、
管理会社を通してください」
佐伯ミナ
「個人間での責任追及は、
お互いに不利益です」
それだけ言って、
ミナは部屋へ戻った。
余韻
ドアが閉まる。
室内。
段ボールを開け、
母の作った味噌汁を温める。
湯気が立つ。
(ここは、安全圏)
(無断で踏み込ませない)
ナレーション
――ここは、コミュニケーション許可局。
境界線は、
職場だけに存在するものではない。
善意の形をした確認も、
親切の顔をした説明も、
合意がなければ、
侵入に変わる。
生活空間では、
感情が先に来る。
年齢、立場、在住年数──
それらはしばしば、
根拠の代わりに使われる。
だが、
推定は事実ではない。
近所付き合いは、
責任を肩代わりしない。
佐伯ミナは、
相手を否定しなかった。
怒りも、軽蔑も、
一切示さなかった。
ただ、
「誰が決めたのか」
「何を根拠にしたのか」
その二点だけを、
順に確認した。
それだけで、
支配は成立しなくなる。
ここは、コミュニケーション許可局。
規範は、
名札を外しても消えない。
生活という無防備な場所でこそ、
最初に適用される。
佐伯ミナは今日も、
声を荒げることなく、
無断の踏み込みを
処理しただけだった。
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