IFの書・記憶喪失の僕と、バタフライエフェクトで積極的になった幼なじみと変わった世界

桜花

第1話前編 神様は見てくれている。

 傘を閉じるのを忘れていたことに、歩き出してから気づいた。

 雨粒はすでに布地を越え、肩口から喪服の内側へと染み込んでいる。

 ひやりとした感触が、身体よりも先に心を冷やしていった。


 墓石は、もう白くなっていた。

 かつて刻まれた文字の輪郭は、雨に洗われ、風に削られ、少しずつ角を失っている。

 それでも、ここに来るたび思ってしまう。

 ――彼女は、昨日まで生きていたんじゃないか、と。


 駐車場から墓前までのわずかな距離。

 誰もいないはずなのに、背中に視線が刺さる。

 見られている。

 責められている。

 そう思うだけで、胸の奥がきゅっと縮こまり、消えてしまいたい衝動に駆られた。


 世界は雨音に支配されていた。

 それでも、無遠慮に現実は割り込んでくる。


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。


 画面に視線を落とす。

 そこに躍っていたのは、もう見慣れてしまったはずの文字列だった。


「仮名株、青山家の闇隠し」


 大きな見出し。

 煽るような副題。

 断定的な言葉遣い。


 画面を閉じても、安心は訪れない。

 シャッター音が、脳内で何度も反響する。

 フラッシュの残像のように、文字がくっきりと焼き付いて離れなかった。


 仮名株を利用した廣明さんは、もうこの世にいない。

 責任を取るべき本人は死に、家は断絶し、名簿からも消えている。

 それでも矛先は、今を生きている者に向けられた。


 相談できる人間は、もういなかった。

 いや、正確には――信用できる人間がいなかった。


 彼女の家も、十年前に途切れている。

 血縁も、繋がりも、すべてがそこで終わった。


 家に帰ると、灯りを点けることはなかった。

 暗闇の中の方が、まだ落ち着けた。


 ネクタイを外し、スーツを脱ぎ、床に放り投げる。

 シャワーを浴びる気力すら湧かず、そのままソファに身体を沈めた。


 天井の染みを数える。

 一つ、二つ、三つ。

 いつからか、それが癖になっていた。


 彼女が死んでから、身についた癖だった。


 もし、彼女が生きていたら。

 その思考は、もう無意識の領域にまで染み込んでいる。

 考えない日は、ない。


 目を閉じた。

 眠るつもりは、なかった。


 ――それでも。


 闇の中に、足元だけが浮かび上がった。

 冷たく硬い感触。

 見下ろすと、大理石の床だった。

 ひび一つなく、磨き上げられた白。


 ゆっくりと顔を上げる。


 そこにあったのは、見慣れたはずの空間だった。

 和室の書斎。

 畳の匂い。

 障子越しの柔らかな光。

 現実の自宅と寸分違わない――いや、どこか整いすぎている。


 夢は、最近よく見る。

 彼女が生きている世界。

 笑って、話して、隣にいる。

 それが定番になっていた。


 だが、こんな夢は初めてだった。

 現実と同じはずなのに、決定的に違う。

 ここは、ただの「再現」ではない。


 そして。


 書斎の奥。

 机の向こう側に、ひとりの女性が座っていた。


 年齢は分からない。

 若くも、老いても見える。

 和服姿で、背筋を正し、こちらをまっすぐ見ている。


 その視線が、逃げ場を許さなかった。


 

  女性は、静かに口を開いた。


「……ごめんね。突然で。びっくりしたよね」


 声は穏やかで、やけに現実味があった。

 夢にしてははっきりしすぎている。


「私はこの国の管理人よ」


「……管理人?」


「ええ。分かりやすく言うなら、神様みたいなものね」


 かな、じゃねぇ。


「いやいやいや。急にそんなこと言われても信じられるかよ」


「そうよね。普通は無理よね」


 あっさり認めるな。


「でもね、あなた――もう死んでるの」


「……は?」


 聞き返した瞬間、空気が一段冷えた。


「事故死。しかも割とあっさり」


「いや待て。割とって何だ」


「説明すると長いんだけど……」


 彼女は目を逸らした。


「……ちょっと私の操作ミスもあったり?」


「あるのかよ!」


 即ツッコんだ。


「え、なに? 神様ってそんなノリなの?」


「最近はコンプラ厳しくてね」


「神界にもあるのかよコンプラ!」


 叫んだ拍子に、違和感が走る。


 声が――高い。


「……ん?」


 自分の手を見る。


 細い。

 白い。

 そして短い。


「……誰の手だ、これ」


「あなたの」


「いや嘘だろ」


 足元を見る。

 制服。

 ブレザー。

 高校指定っぽいやつ。


「……ちょっと待て。俺、今いくつだ?」


「外見年齢? 十七くらいかな」


「かな、じゃねぇ!!」


 思わず声を荒げると、感情が一気に噴き出す。

 怒りが早い。

 言葉が雑。

 頭より先に口が動く。


「……あ」


 管理人は、僕を見て納得したように手を打った。


「出たわね」


「何がだよ」


「魂と器のズレ」


「ズレってレベルじゃねぇぞ!」


 管理人は正座し直し、急に真面目な顔になる。


「いい? ちゃんと説明するわ」


「魂ってね、基本的に“入れ物”が必要なの」


「入れ物?」


「身体。つまり器よ」


 彼女は僕の制服姿を指差す。


「で、魂はね。一番強く記憶が刻まれた身体に引っ張られる性質があるの」


「……つまり?」


「あなたの場合、それが高校生の頃だった」


 胸が、少しだけ痛んだ。


「大人になってからのあなたはね」


「責任だの立場だの背負って、ずっと無理してた」


「でも魂が“生きてた”って感じてたのは、あの頃」


「だから――戻ったの」


「勝手すぎないか、それ」


「魂なんて基本ワガママよ」


 即答だった。


「それに若い体は未完成だから余白が多いの」


「魂が馴染みやすいのよ。高校生ボディ、意外と万能」


「万能とか言うな」


 そう言った瞬間、胸の奥がざわつく。

 焦燥感。

 衝動。

 理由のない苛立ち。


「……感情が、制御しにくい」


「でしょ?」


 管理人はドヤ顔だった。


「思考は大人。でも感情は器に引っ張られる」


「つまり、精神年齢はそのままなのに」


「キレやすさと行動力だけ高校生仕様」


「最悪じゃねぇか!」


「懐かしいでしょ?」


「懐かしくねぇよ!」


 すると、管理人は突然ハッとした顔をする。


「あ、でも安心して」


「何だ」


「完全に子供になるわけじゃないから」


「ただし」


 人差し指を立てる。


「このまま流されると、思考も年齢に引っ張られる」


「衝動で動くし、後で自己嫌悪するし」


「恋愛感情とかも無駄に強くなる」


「やめろ、それ以上言うな!」


 全部、覚えがありすぎた。


「……で」


 僕は深く息を吐く。


「この高校生の体で、どこに行かされるんだ」

 「そんな言い方ないでしょ? 悪いと思っていい提案を持ってきたのに」


 管理人は、一冊の本を取り出す。


「if世界よ」


「異世界じゃないの?」


「似てるけど違うわ」


「“彼女が生きている可能性”が分岐した世界」


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


「……行くしかない、って顔してるわね」


「当たり前だろ」


 管理人は少しだけ笑う。


「じゃあ今度こそ、間違えないようにするわ」


「今度こそって言うな」


 本が開かれ、白い光が溢れ出す。


「行ってらっしゃい」


「高校生のあなたに」


 そう言い残した瞬間、僕は本の中に吸収された。

 目を開けると、そこには見知らぬ天井があった。


「……あれ?」


 いつもなら、天井の染みを数えて現実逃避を始めるところだ。

 だがなぜか、今日はその気分にならない。


 体を起こして周囲を見渡す。


「……実家?」


 そう、間違いない。

 僕のワンルームでもなければ、さっきまでいた意味不明な世界でもない。

 ここは、間違いなく――昔住んでいた実家の部屋だった。


 視界に入るのは、古い机。

 壁に貼られた懐かしいポスター。

 そして――


「……そのスマホ、懐かしすぎない?」


 頭が、ぎゅっと掴まれたような感覚に襲われる。


 まるで記憶が逆流するみたいに、

 昔の部屋、昔の時間、昔の自分が脳内になだれ込んできた。


「う、わ……」


 立ち上がろうとした瞬間、視界が真っ白になる。


「……立て、ない……」


 次の瞬間。


 ――バタン。


 盛大な音を立てて、僕は床に倒れた。


 その音を聞きつけたのだろう。

 ドアが勢いよく開く。


「坊ちゃん!? 坊ちゃん、大丈夫ですか!」


 そこに立っていたのは――

 昔、実家で雇っていた執事だった。


「え、ちょ、待っ――」


「坊ちゃん! しっかりしてください、坊ちゃん!」


 声は聞こえているのに、体が動かない。


 意識が遠のく中、最後に思った。


(あ、これ絶対ロクなことにならないやつだ……)


 ――そして、僕は意識を失った。


 次に目を覚ましたとき。


 そこは病院……ではなかった。


「……和室?」


 さっきの部屋と同じ、実家の書斎。

 布団まで敷かれている。


「……どういうこと?」


 混乱していると――


「ごめんなさい。また忘れてたわ」


 聞き覚えのありすぎる声が、頭上から降ってきた。


「……また?」


 視線を向けると、そこには例の管理人が立っていた。


「今度は何を間違えたんですか?」


 若干キレ気味に聞くと、管理人は悪びれもせず言う。


「IF世界とか別世界に行く子には、本当は神使を付けなきゃいけないのよ」


「……はい?」


「でもね、あなたには――」


 ニヤリ、と嫌な笑み。


「とびっきり優秀な神使を付けてあげるわ」


「いや、信用できないんですけど」


「何言ってるの。この子、いくつものIF世界を冒険する予定の子よ?」


「予定ってなに!?」


「私たち、未来も管理してるから」


「さらっと怖いこと言わないで!」


 すると、横から声がした。


「……それ、単にあなたが管理ミス多いだけでは?」


 白い毛並みの――狼が、ため息をついている。

 次の瞬間、ずるんと輪郭がゆるみ、尻尾はぷるんとハート形に丸まり、

 デフォルメ化した。


「この子が真神。通称マキよ。

 白い狼で、私の秘書もしてるくらい優秀なの」


「秘書……?」


「ワガママなところもあるけどね」


「誰がワガママですか」


「はいはい」


 管理人は適当に流すと、突然手を光らせた。


 眩しい。


「ちょ、なに!?」


 光が収まったとき、

 僕の左手の人差し指には――

 シンプルな二連の指輪がはまっていた。


「……これ、なに?」


「契約の指輪よ」


 マキが説明する。


「神使に一つだけ渡されるもので、

 神使と一身同体になるやつです」


「いや重っ!」


「そんな大事な指輪なら返します!」


 そう言って引き抜こうとすると――


「無理よ」


 管理人が指をつかんで引き止める。


「渡した物は、天寿を全うしない限り解除されないから」


「さらっと地獄みたいな条件付けないで!?」


「なにやってるんですか……」


 マキが呆れた声で言う。


「で、なんでまたこの世界に戻されたんですか?」


「マキを渡すため」


「それだけ!?」


「あと、あなたが倒れた理由だけど――」


 管理人は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。


「……それも私のミスね」


「またかぁぁ!!」


「本当はIF世界に行く前に処理しなきゃいけなかったんだけど……」


「信用できなさすぎる!」


「この世界が平行世界ってことは分かってるわよね?」


 うなずく。


「あなたがいる並行世界には、あなたが二人いるの」


「……え?」


「ルールがあってね。同じ人物同士は会っちゃダメなの」


「ドッペルゲンガー的な?」


「そう。

 だから、今いる世界のあなたを魂にして、あなたと一つにしたの」


「さらっと何してるんですか!?」


「でも脳の処理が追いつかなくて、ショートしたみたい」


「原因それ!?」


「まあ、今は大丈夫よ」


「信用できない!」


「指輪はこっちと自由にやり取りできたり、便利機能満載だから使ってみてね」


「雑すぎる説明!」


「昔っぽくなってきたわね。

 それじゃ、楽しんできてね~」


 どこからともなく聞こえた声。


 振り返ると、例のポンコツ女神が、やたら満足そうな顔で手を振っていた。


「楽しめる状況じゃないんだけど!?」


 そうツッコむ間もなく、足元がぐにゃりと歪む。


「ちょ、またか!」


 視界が本の文字みたいに流れ始め、体がぐいっと引っ張られる。


「吸い込むな! 本に吸い込むなって!」


 叫びながらも、僕はなぜか慣れた動作で――


 親指を立てた。


「……了解です。クソ神」


 そのまま、僕の体は本の中へと吸い込まれていった。

 そう言って、管理人は消えた。

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