第8話


氷の魔女の館は、美しい地獄だった。 廊下には、かつてここを訪れた冒険者たちの成れ果て――氷像(コレクション)が、恐怖の表情を浮かべたまま永遠の沈黙を守っている。


「ひっ……ううっ……」 バグズの足が震えている。 無理もない。最深部の広間に鎮座していたのは、冷気を纏う絶世の美女。 そしてその周囲には、無数の氷の槍が浮遊していた。


『あら、新しいお客様?』 魔女が艶然と微笑む。その声を聞くだけで、皮膚が凍りつきそうだ。 『暖房(いのち)を持ってきてくれたのね。……ふふ、まずはどっちから凍らせてあげようかしら?』


魔女が指を弾くと、氷の槍が一斉に俺たちへ向いた。 「ひぃぃっ! 無理だ! こんなの勝てるわけねえ!」 バグズが絶叫し、踵を返す。「わりぃな坊ちゃん! 契約破棄だ! 金はいらねえ、俺は帰るぞ!」


想定通りの反応だ。 このレベルの敵に対し、三流の傭兵では戦意を維持できない。 だが、帰すわけにはいかない。彼は重要な「資材」なのだから。


「待て、バグズ」 俺は背を向けたバグズに向け、無表情で杖を構えた。


「――お前の仕事はまだ終わっていない」


「あ?」 バグズが振り返った瞬間。 俺は躊躇なく魔法を放った。


「『アース・バインド(泥濘の枷)』」


「え?」 バグズの足元の床が泥沼のように変化し、彼の両足を膝まで飲み込んだ。 そして瞬時に硬化し、彼をその場に固定する。


「な、なんだこれ!? 動けねえ! おい坊ちゃん、何しやがる!」 「配置転換だ」 俺は淡々と告げた。 「魔女の氷の槍は、動く熱源を自動追尾する。……つまり、ここで一番『熱く』暴れてくれる囮が必要なんだ」


「お、囮!? ふざけんな! 俺には娘が……!」 「だからこそだ」 俺はバグズの目を見て言った。 「娘に会いたいだろう? 死にたくないだろう? その『生への執着』こそが、魔女の興味を引く最高のエサになる」


「てめぇ……! 悪魔か!!」


『あら、仲間割れ?』 魔女が楽しげに笑う。 『いいわ。動けないその子から頂くわね』 無数の氷の槍が、拘束されたバグズへ殺到する。


「うわああああああ!! くるなぁぁぁ!!」 バグズが剣を振り回し、半狂乱で叫ぶ。 「死ねねえ! 俺は死ねねえんだよぉぉぉ!!」


その絶叫と熱量は凄まじかった。 魔女はサディスティックな笑みを浮かべ、あえて急所を外して彼の手足を一本ずつ凍らせていく。恐怖の悲鳴を長く楽しむために。


その隙だ。 魔女の意識が完全にバグズに向いている一瞬。 俺は影のように走り出した。


(ごめんね、バグズさん) 幻覚のエリスが耳元で囁く。 (でも、ありがとう。貴方のおかげで世界が救えるわ)


俺は祭壇へ滑り込み、そこに安置されていた『氷結の鏡』をひったくる。 冷たい。指の感覚がなくなるほどの冷気だが、構わず鞄に押し込む。


「確保完了」


その声に、魔女がハッとこちらを向いた。 『なっ……!? いつの間に!』 「遅い」 俺はすでに、出口へと走り出している。


背後で、バグズの声が聞こえた。 「おい! 待て! 待ってくれアルヴィン!」 下半身を凍らされ、それでも彼は俺に手を伸ばしていた。 「娘が……薬が……! 約束しただろう!?」


俺は立ち止まらず、背中越しに冷たく言い放った。


「安心しろ。契約通り、成功報酬の金貨50枚は……お前の娘に送っておいてやる」


「そうじゃねえ! 俺は……俺はぁぁぁ!!」


パキィン。 乾いた音が響き、絶叫が途絶えた。 完全に凍りついたのだ。


『ちょっと! 私の鏡を返しなさい!』 魔女が激昂して追おうとするが、俺はすでに出口の扉を閉め、あらかじめ設置しておいた爆破魔法を起動していた。


ドオォォン!! 入口の回廊が崩落し、大量の岩が道を塞ぐ。 これで魔女もしばらくは出てこられない。




雪山の外に出ると、吹雪は止んでいた。 俺は懐から手帳を取り出し、震える手で――寒さのせいか、それとも別の何かのせいかは分からないが――記述を追加した。


『業務報告』 『第二秘宝「氷結の鏡」、回収完了』 『損耗:臨時雇用員1名(契約満了)』


「……契約満了、か」 俺は白い息を吐き出した。 彼を見殺しにした罪悪感? ないわけではない。胸の奥が鉛のように重い。 だが、隣を見ると、ガルドがニカっと笑っていた。


『やるじゃねえかリーダー。あいつ、いい仕事したな』 『うんうん。最高の囮だったわ』 ミナも拍手している。


そう、彼らは肯定してくれる。 俺がどれだけ外道な行いをしても、死んだ仲間だけは「世界のためだ」と許してくれる。 この甘美な狂気さえあれば、俺はどこまでも堕ちていける。


「……次は、東の砂漠か」


俺はバグズの娘の住所が書かれたメモを懐にしまい、雪を踏みしめて歩き出した。 金は送る。約束は守る。 俺は嘘つきではない。ただの、誠実な「鬼」だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る