第4話

「はぁ……はぁ……ッ!」 石畳を蹴る音が、荒い呼吸と共に回廊に響く。 もはや「冒険」ではない。「逃走」だった。


「こっちだ! 急げ!」 俺は叫び、エリスの手を引いて角を曲がる。 背後から、金属が擦れ合う嫌な音と、腐臭を帯びた風が迫ってくる。


あれから数十分。俺たちは地獄を見ていた。 現れたのは「影の騎士」だけではなかった。 壁をすり抜ける亡霊、天井から降り注ぐ酸のスライム、床から突き出す毒の槍。 王宮のデータにある「低級魔物」など一匹もいない。すべてが殺意の塊だった。


「クソッ、キリがねぇぞ! 俺の斧が刃こぼれしてやがる!」 殿(しんがり)を務めるガルドが悲鳴に近い声を上げる。 自慢のミスリル合金の戦斧は、硬すぎる敵の鎧を叩き続けたせいで無惨に歪んでいた。 「ガルド、無理に倒すな! 弾くだけでいい!」 「分かってらぁ! でも数が多すぎるんだよォ!」


ドガァッ!! 衝撃音と共に、ガルドが吹き飛ばされ、俺たちの足元に転がった。 「ガルド!」 「ぐぅ……ッ! 平気だ、カスが当たっただけだ……!」 彼はすぐに立ち上がったが、その左腕は不自然な方向に曲がり、鮮血が滴り落ちていた。 骨が折れている。あの頑強なガルドが、たった一撃で。


「回復! 回復魔法を!」 ミナが叫び、短剣を構えて前衛に出ようとする。 「ダメよミナ! 前に出ないで!」 エリスが杖を掲げる。「聖なる光よ、彼の傷を癒したまえ(ヒール)!」


淡い光がガルドを包む。しかし、傷の塞がりが遅い。 「……なによこれ」 エリスの声が震えている。 「魔力が……阻害されている? この遺跡全体が、回復魔法の効果を薄める結界になってる……!」


その事実に、俺たちは絶句した。 回復が効かない? それじゃあ、ジリ貧だ。 傷つけば傷つくほど、死に近づく。


「ヒヒッ……」 闇の奥から、嘲笑うような声が聞こえた。 無数の赤い瞳が、暗闇の中で光っている。 俺たちは包囲されていた。


「……悪い、リーダー」 ミナが唇を噛み締め、震える手で短剣を握り直した。 「私、パン屋やるって言ったけどさ……ちょっと、延期になるかも」 「馬鹿なこと言うな!」 俺は怒鳴った。「諦めるな! この回廊を抜ければ、祭壇があるはずだ! 秘宝さえ手に入れれば、結界だって消えるかもしれない!」


根拠などない。ただの願望だ。 だが、そう信じなければ足が止まってしまう。 「行くぞ! ガルド、走れるか!」 「おうよ……! 英雄トマトを作るまでは、死ねねぇんだよ!」


俺たちは走った。 血の跡を残し、泥にまみれ、プライドも慢心もすべてかなぐり捨てて。 ただ生き延びるためだけに、無様に走った。


そして、巨大な扉の前にたどり着く。 最深部。秘宝の間だ。 「ミナ! 鍵は!?」 「罠はない! 開いてる!」


ミナが体当たりで扉を開ける。 俺たちは転がり込むように中へ入った。 「閉めろぉぉぉ!!」 ガルドと俺で扉を押し戻し、かんぬきをかける。 ドン! ドン! ドン! 外から魔物たちが扉を叩く音が響くが、扉は分厚く、簡単には破られそうにない。


「……助かった、のか?」 ガルドが扉に背中を預け、ズルズルと座り込む。 ミナも床に大の字になり、荒い息を吐いている。 エリスはガルドの治療に駆け寄った。


俺は膝に手をつき、顔を上げた。 そこは、ドーム状の広大な空間だった。 天井は高く、中央には不気味なほど青白く輝く祭壇がある。 そして、その祭壇の上に、求めていた『嘆きの聖杯』が浮いていた。


「あった……」 俺は乾いた笑い声を漏らした。 「あったぞ! 秘宝だ! これを持って帰れば、任務完了だ!」


歓喜が湧き上がる。 終わった。この悪夢から解放される。 俺たちは立ち上がり、互いの無事を確認し合おうとした。


――その時だった。


カツン、という硬質な足音が、部屋の奥から響いた。 扉の外の魔物ではない。この部屋の中に、誰か(・・)がいる。


「よく来たな、哀れな生贄たちよ」


祭壇の奥から姿を現したのは、全長3メートルはある巨体。 全身を黒い甲冑で覆い、手には身の丈ほどの処刑鎌を持った、死神のような騎士。 いや、ただの騎士ではない。 その全身から放たれるプレッシャーは、先ほどの雑魚魔物とは次元が違った。


「嘘だろ……」 ガルドが呻く。戦士の本能が告げているのだ。「勝てない」と。


死神は兜の奥で、カチリと歯を鳴らすような音を立てた。 「ここは勇者の試練の場ではない。無力な羽虫をすり潰し、その絶望を精製するための搾取場だ」


死神が一歩踏み出す。 ズン、と床が揺れた。


「さあ、始めようか。お前たちの愛と絆が、どれほど良質な悲鳴を上げるのか……試させてもらおう」


出口はない。 回復は効かない。 そして目の前には、絶望そのものが立っている。 俺たちの「英雄ごっこ」は、唐突に、そして最悪の形で幕を下ろした。

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