路地裏の徒花

砂山 海

路地裏の徒花

 今日も私の上に男が覆いかぶさり、余裕なく腰を動かしている。


 相手は近所で八百屋をやっているご主人。五十過ぎの腹も出た体型で一生懸命汗をにじませ動いている。今日は市場の帰りの途中で寄ったらしいが、本業の方でこんなに頑張っている姿は見た事が無い。

「ほら、いいだろ。もっと声出してもいいんだぞ」

 下卑た顔でそう言うけど、正直気が乗らないので声なんか出ない。煙草臭い息を荒げながら顔を舐め回されるのは若干不快だけど、別にこれで一万もらえるならどうでもいい。私は揺れる天井をぼんやり眺めながら、早く終わらないかなと思うだけ。

「ほんとよぉ、強情な女だな。俺はもうイくぞ」

 別に感じて無いわけじゃない。濡れているし、若干の気持ち良さはある。でもそれだけ。

 ウブな女でもあるまいし、いちいちセックスするだけで大騒ぎするほどの歳でもない。別にしたいなら、余程の奴じゃなければ断らない。そして自分に高値をつけようとも思わない。

 こんな便所みたいな環境で咲く花なんか無いのだから。


「ふぅ、良かったよ。また頼むな」

 そう言うと八百屋の主人は一万円を私の傍に置き、満足気に帰っていく。私はティッシュを乱雑に三枚取るとアソコを拭き、服も着ずにその一万円を押入れの中の金庫に入れた。そして台所で軽く顔を洗いうがいをすると、居間に戻って煙草に火を点けた。

 窓からは夕日が差し込んでいる。そこに煙を吐き出すと白っぽくゆらめく。どこかで鳴くカラスの声を聞きながら灰皿に灰を落とし、また深々と吸う。一仕事終えた一服はいつだって美味しい。

 そして煙草の煙で部屋に残る男と女の残り香を上書きしたかった。

 八畳一間の和室しかないボロアパートが私の住処。壁はヤニで黄色くなり、畳はどこも茶色くささくれ立っている。さっきまでしていた布団はもう染みだらけのせんべい布団。住宅街の奥まった所にあるからか、八部屋あるのに住人は私を含めて三人だけ。

 それでもここは私の城であり、楽園。定職にも就いていないロクな人間じゃない私は普通ならとっくに外に放り出されても仕方ない。でもまだ私には女を売れる。だから住めるし、三度の食事だって困らない。

 それで十分なのだ。むしろそれ以上の幸せなんかあるものか。

 煙草が根元まで灰になると灰皿に押し潰し、私はうんと伸びをした。そうして大きく息を吐きながら目線を下げると、少し垂れた胸にややたるんだ腹が見える。まぁ仕方ない、三十五にもなればこんなものだ。

「銭湯でも行くか」

 私は脱ぎ捨てた下着や衣服を手繰り寄せると、重い腰を上げながらパンツをはいた。


 夕暮れ時の銭湯は混み始めていたものの、洗い場を待つほどではなかった。風呂は好きだ。特に大きい風呂であるほどに良い。アパートにはついていないし、あったとしてもあそこなら膝を抱えないと湯船に入れないだろう。

 それに比べてこの『小金湯』は別格だ。熱く大きな風呂がある。さっきの八百屋の主人につけられた垢を落とし、手足を伸ばしながらのんびり入る風呂は格別。風呂に入ってる時だけが、何もかもを忘れられる。そして誰も彼も、平等に思える。

 身綺麗になれば自分が真人間だと錯覚してしまう。でもそんなわけないので、いつも我に返り苦笑い。それだって誰も見ちゃいない。

 風呂から上がって髪を乾かすと、私はいつものように黒いゴムで雑に後ろで一つにまとめた。抱かれる時は寝転がるとゴムが当たって痛いけど、そうでない時は邪魔なのでこうしている。備え付けの鏡を見て綺麗になったのを確認すると、いつものようにコーヒー牛乳を買い、紙の蓋を外す。そうして勢いよく飲み干すと、銭湯を出た。

「おっ、風呂上がりなのか。丁度良い、今からどうだ?」

 銭湯を出るなり、今度は不動産屋の主人に声をかけられた。頭の禿げた、脂ぎった五十男。折角風呂に入ったばかりなのになと思いつつ、抱かれればまた金が入ると思えば断る理由もない。

「いいよ。たださ、風呂上がりなんだからまたこの後に風呂入らないとならないじゃない。銭湯代も出してよね」

「わかってるわかってる、綺麗にしてくれてるんだから色付けるよ。雪乃ちゃんの家でいいのかな?」

「いいよ、そこなら余計な金かからないでしょ」

 夕日を浴びながらゆっくりと私達は歩き出す。まだ少し濡れた髪が風に拭かれれば心地良い。隣の主人はにやけながら歩いている。何を考えているのか丸わかりだ。

 はぁ、また銭湯に来なきゃならないのは面倒だな。

 私はそれしか考えていなかった。



 トラックが通る度、砂塵が舞い上がる。ロクに舗装されていない道は雨が降ればぬかるみ、晴れが続けばこうして車や風が通り過ぎれば砂煙が立ち上る。道端には誰かの痰やガムの跡。

 近所の酒屋で安酒を買った帰り道、向こう側の道路を小学生数人が駆けていく。楽しそうに笑いながら、重たいだろうランドセルを背負って飛び跳ねているのを見れば微笑ましくも虚しい。こんな大人になるんじゃないよと、心の中で呟き私は足元の小石を蹴飛ばす。

 錆びた手すりの階段を上り、二階の右端の部屋が私の部屋。薄汚れた茶色いドアを開けて中に入ると安酒を座卓の上に置き、私はどかっと座ると煙草に火を点ける。

 ちらっと布団に目をやれば、半日前のシミが残っている。相手は酒屋の小間使いの男。二十歳そこそこだけあって性欲は旺盛だったが、余裕のない男だった。する前はギラギラしていたくせに、さっき酒屋で会ったら何だか自信を無くしていたみたいで面白かった。今思い出しても笑える。

 大きく一吸いして布団の辺りを白く染めると、不意にドアがノックされた。今度は誰だろうか。私はまだ長い煙草を消すのが惜しかったから灰皿に置くと、重い腰を上げて玄関のドアを開けた。

「あの、依田雪乃さんでしょうか?」

 そこに立っていたのは背中までの髪を綺麗に伸ばした女学生だった。凛とした表情で私を見ているけど、こんな知り合いはいない。

「どちらさん?」

「私、藤田伊万里と言います。あの、噂を聞いてここに来ました」

 迷いなくそう答えるその子だったけど、とても滑稽に思えた。金を払えば誰とでも寝る便所女だという噂くらい、私だって知っている。でもここに女が来たのは初めてだったし、ましてやこんな学生服を着ている子だなんて。

「何を聞いたか知らないけど、ここはアンタのような子が来るとこじゃないよ」

「一万あります。これでいいんですよね」

 するとその子はカバンの中から上等な財布を取り出し、一万円札を突き付けてきた。

「抱かせて下さい」

「意味わかって言ってるの?」

 怪訝な顔で彼女を見れば、目の光りを変えずにうなずき返された。正直女相手なんかした事無いからどうしたものかなと思いつつ、目の前の一万円札に惹かれる。それは私を抱く上でのルールのようなもの。金さえ払えば大抵の人とするのだから。

「もちろんです」

 まぁ、いいか。どうせすぐに飽きるだろう。

「……じゃあ入んな」

 彼女を招き入れると、私は煙草をほったらかしにしていた事に気付く。もう全て灰になり、フィルターの部分が焦げて座卓の上に落ちていた。私は舌打ちするとそれを灰皿の中に入れ、改めて彼女を値踏みする。

 身なりや着こなしから、どこかいい家庭で育ったんだろうと言うのが分かる。少し痩せ気味で、見た限り色気はそこまで無い。ウブな女の子。それが彼女の第一印象だった。

「で、どうするの? 私、女相手は初めてだから何すればいいのか教えてよ」

 そう言いながらその金をよこせとばかりに手を差し出すと、何の迷いもなく彼女は一万円札を私に渡した。

「特に何もしなくていいです。私がしたいようにするんで」

「ふぅん、なら楽だ。痛いのや痕が残るのは無しだよ」

 私はさっさと服を脱ぐと、全裸でその子の前に立つ。すると彼女は驚きつつも興奮したように目つきが変わり、少し息が荒くなったように思えた。

「じゃあ、そこの布団に寝て下さい」

「わかったよ。でも一時間だよ」

 そう言いながらその子も覚悟を決めたように学生服を脱ぎ始めた。衣ずれの音と共に床に一枚ずつ落ちていく。やがて白い下着姿になると若干恥ずかしそうにしていたが、一時間という制限があるからか顔を真っ赤にしながら下着をも脱ぐ。

 小ぶりの乳房に少し多めの陰毛、思ってた通り痩せた身体だけど女らしい丸みはある。耳まで真っ赤にしながら彼女は寝ている私にそっと近付き、正座になって両手で私の乳房を揉みだす。

 荒く、ぎこちない揉み方は酒屋の小間使いを思い出させる。つまりは下手くそだ。

 けれど少し経てば乳首のいじり方や揉み方は男の余裕のないそれと違い、気持ち良くさせようとしているのがわかる。やがて荒くなる吐息が近付き、私にキスをしてきた。煙草臭いだろう口を気にせず舐めているうちに興が乗ってきたのか、私にまたがってきた。

 キスした口を離した彼女は目をギラギラさせながら私を見下ろしている。そうして私に身体重ね、自分の乳首で私の乳首をこすったり首筋や耳元を舐めてくる。

 女同士だから気持ち悪いとか、感じないとかはなかった、でもやっぱり女の人にされるのは不思議な感覚で、男にされるよりもむず痒い。快楽の質が少し違うのだ。

「雪乃さん、雪乃さん、すごいよ」

 名前を呼ばれ、なおむず痒くなる。でも嫌な感じじゃない。胸を舐められ、股の間に差し込まれた足が私のアソコを微妙に刺激してくる。イクまでには程遠いけど、感じはする。じんわりと、芯を温めるように。


 でも、それだけだった。


 少し濡れはしたものの、それだけ。表面だけの刺激で、奥まで響かない。正直挿れさえすればもっと感じるだろうから、そう言う意味では下手でも酒屋の小間使いの方が気持ち良かった。

「はい、時間だよ」

 結局キスや胸への愛撫ばかりで一時間が経った。私が時間を告げると彼女は名残惜しそうに、でも素直に私から離れる。

「汚れてたら拭きな」

 私がそう言ってティッシュの箱を渡すと、彼女は小さくうなずきながら三枚取って口周りと股を拭く。そうして丁寧に小さく丸めてゴミ箱に捨てると、少し思い悩んでから服を着始めた。

「あの、また来ますんで」

「そうかい。まぁ金があるなら私は構わないよ」

 私は全裸のままあぐらをかき、タバコに火を点ける。そうして手をひらひらさせて客を見送ると、先程までの情事の跡に目を向けた。

 自分じゃない雌の匂いが強く漂っている。あの子、本気で感じていたんだろう。また来ると言っていたけど、本気なんだろうか。私は別に喘ぎもせず、ただ黙ってされるがままだったのに。

 こんなの面白いのだろうか?

 深く煙を吸うと大きく吐き出した。薄紫の煙が窓辺で揺らめき、消えていく。私の中でふと浮かんだ疑問も同じように霧散していった。



「あの、今いいですか?」

 それから四日後の夕暮れ時、そろそろ夕食でも食べようかと思い始めた頃にまた彼女がやってきた。今日は私服だがシワ一つない。裕福でしっかりした家庭のお嬢さんなんだとこれだけでもわかるけど、だったらなおさら何で私の所に来るのかがわからない。

「金があるならいいよ、入りな」

 彼女は一礼し、家に上がる。どうみてもこんなみすぼらしくヤニ臭いアパートには似合わない。私が右手を差し出すと、彼女はバッグから財布を取り出して一万円札を渡してくる。学生にとって、決して安くはない金だ。

「で、私はまた裸になって寝てればいいのかい?」

「はい。あ、でも、できれば少し触って欲しいです」

 女を愛撫する事はないから、正直やり方なんてものはわからない。身体を売るようになってから自分で処理する事もほとんどないから、なおさらだ。

「別にいいけど、女相手なんてした事無いから期待しないでよね」

 男相手でも手でしごくだけで濃密な愛撫なんかしない。私はただ身体を貸すだけで、後は好きにしろってスタンスなのだ。だから彼女に対しても、そんなにやる気にはならない。

「ありがとうございます」

 それでも嬉しそうに笑顔になって頭を下げる姿がまぁ、可愛らしかった。

「じゃあ、とっととしようか」

 私が脱ぎ始めると、彼女も前回ほどはためらわずに脱ぎ始めた。白い肌が綺麗で、手指なんかもすらっとして苦労を感じさせない。私は先に脱ぎ終わると、ごろりと布団の上に仰向けになった。そうして彼女の方を見ればパンツを脱いでいる所だった。


 濡れていた。もう糸を引き、期待している。


「アンタもうそんなになって、そんなに私を抱きたかったのかい?」

 からかいがちにそう言えば彼女は耳まで真っ赤になりながら、こくりとうなずいた。

「ずっと、考えていました。前回の事が忘れられなくて、毎晩一人でしていても満足できなくて」

 随分と性欲旺盛な。まるで若い男の様。そんな風に私が苦笑いすると、彼女は私の目をしっかりと見詰めてきた。

「あと、伊万里です。アンタじゃなく、伊万里です」

「そう。じゃあ伊万里、早くおいで。時間がもったいないでしょ」

 手招きすればすぐ伊万里が私の上に覆いかぶさり、キスをしてきた。小さく柔らかな舌が私の唇を舐め、中へと入ってくる。私も少し応じてやると、伊万里が小さく喘ぐ。何だかその反応がちょっと面白くて、意地悪してやりたくなったから舌を更に絡める。

 ピクピクと伊万里の身体が震える。私は抱くようにその背に手を回せば、穢れを知らない絹の様に滑らかだった。若くて瑞々しい肌、私にもこんな時がきっとあった。そして背中を撫でているだけで、伊万里が気持ち良さそうな声を漏らす。

「雪乃、さん。いいの、気持ちいいの」

「まだ背中を撫でてるだけじゃないか。もうよがってるのかい」

「だって、だって雪乃さんとずっとこうしたかったから」

 男とするセックスの時は寝てれば勝手に興奮して、勝手に出して終わってくれる。けれど伊万里は耳を赤くしながら見悶え、感じる。それが嗜虐心を刺激し、普段はしない愛撫に熱が入る。私は背に回していた手で伊万里を少し引き剥がす。軽い伊万里はすぐに離れたので、私はその小ぶりの乳房を優しく揉む。

「あぁ、胸やだぁ」

「嫌ならやめるけど」

「あぁ、お願い、やめないで。気持ちいいの、もっとして欲しいの」

 私にまたがる伊万里はもう顎を上げ、乳房からの快楽に痺れていた。やがて乳首も固くなり、私の太ももに愛液が付着するのがわかる。軽く太ももを上げ下げすれば、ピチャピチャと淫らな水音が鳴る。

「あっ、やぁ……イく」

 切ない伊万里の喘ぎ声が漏れる。とっさに口を押えたみたいだけど、それが妙に可愛らしくてつい柄にも無く意地悪をしたくなる。

「伊万里、感じやすいんだねぇ。こりゃ男も悦ぶだろうに」

「嫌、男なんか嫌。雪乃さんだからいいの、雪乃さんだから……あっ、イくぅ」

 すると伊万里は勢いよく私に抱き着き、身体を痙攣させた。太ももにはじわりと愛液が溢れ、伝うのがわかる。特に愛撫らしい愛撫なんかしていないのにと思ったけど、息を荒げ身体を上下させながら腰をピクピクと痙攣させる伊万里が可愛らしく、いつ振りかわからないくらいに私もセックスが面白いと思った。

「もう終わりにするかい?」

 その問いに伊万里はゆっくりと首を横に振る。私は何だか嬉しくなり、にやけてくる。

「そうだよね、女は果てて終わりじゃない。いつまでもできるもんだからね」

 無言でうなずく伊万里に私は尻を鷲掴みにする。

「だったら時間までしないと損するよ。ほら、自分で何かしないとされるがままだよ」

 左右に引っ張り、尻の穴をも少し開く。空気が触れる感覚に伊万里は慌てて起き上がり、真っ赤で涙目になった顔をイヤイヤとばかりに左右に振る。

 それが私の嗜虐心を更にあおる。

「ほら、私の身体を買ったんだからもっと好きにしなよ」

 すると伊万里が私の乳首に吸い付いてきた。舌でしごき、ゆっくりと舐め回し、手も加えて愛撫していく。この丁寧さはよほどセックスが上手いか、女にしかできないだろう。懸命に舐める伊万里の姿と愛撫の刺激に、私も濡れてくる。

「雪乃さん、下も舐めていい? 雪乃さんのアソコ、舐めてみたいの」

「好きにしなよ。今は伊万里の時間だよ」

 それにしても、物好きな。伊万里の綺麗なアソコならともかく、私のは黒ずんで臭いだろうに。さっき銭湯に行ってきたとはいえ、何人もの男を咥えてきたものを舐めるだなんて、どんな神経しているんだろう。

「んぅ」

 そう思っていたけど、伊万里が私のアソコを舐めると思わず声を漏らしてしまった。縁を舐める丁寧な愛撫と、芯を刺激する強めの愛撫。すっかり濡れていた私は自分でも最近聞いた事のない自分の感じる声に思わず驚いてしまう。

「雪乃さん、気持ちいいの?」

「まぁね。私だって別に感じないわけじゃないからね」

「よかった、じゃあもっともっと舐めさせて」

 喋る度に吐息がかかり、それが刺激になる。微弱な刺激だけど、最近味わっていなかった刺激。だから妙に私を昂らせる。

 私を抱きに来る男達はロクな愛撫をしない。キスして少し揉んだら挿れるだけ。だからこそ、いつもより昂ってくる。もどかしさがありつつも、懸命で丁寧な愛撫が私を熱くさせる。気付けば上も下も勃起しており、快楽の波がじんわりと深く奥まで広がっていく。

「雪乃さん、気持ち良さそう」

「うん、気持ち良いよ。こんなとこ舐められるなんて久々だから。だってもう、若くは無いし汚いでしょ」

「そんなことない。雪乃さんの凄く綺麗で、いやらしい」

 お世辞だとしても嬉しいが、正直このままだとイくには物足りない。折角火が点いたのだから、もっとして欲しい。

「ねぇ、伊万里のも見せてよ。私もしてあげる」

「え、そんな」

 戸惑う伊万里が何だか可愛らしく、私は彼女の肩を軽く叩いた。

「ほら、私にまたがってみなよ。私も同じように舐めてあげるから」

「じゃ、じゃあ」

 おずおずと伊万里が身体を反転させ、私の顔の上にアソコを近付ける。互いに秘部を目前にした体勢になると、伊万里のソコはもう糸を垂らすように濡れていた。綺麗なピンク色で、ほとんど使っていないのがわかる。けれど主張するところは主張しており、私はそこを舌先でチョンと触った。

「あぁ」

 ビクリと伊万里の腰が跳ねる。奥からしとどに愛液が溢れてきた。女のソコをまじまじと見た事も無ければ、舐めるのも初めてだ。けれど今は嫌な気持ちなど無かった。ただ面白く、可愛らしく、いじめたい。ただその一心。

「やめ、やめて……雪乃、さん……私、できなくなっちゃう」

「伊万里はここがいいんだね。ほらぁ、奥からこんなに溢れさせちゃって。吸わないと顔に垂れちゃうじゃない」

 わざと汚い音を立てて舐め啜ると、伊万里が大きく腰を震わせる。私は尻をつかむと、逃さないようにしながらむしゃぶりつく。愛液と自分の唾液が私の口周りを汚す。女の匂いが強くなり、伊万里が私の顔を挟むように太ももを寄せてブルブルと震える。

「あぁ、もう、もう……ダメぇ」

 私は顔を離すと、そっと指の腹で彼女の勃起部分を撫でた。すると伊万里は声にならない声を出し、一際大きく震える。愛液が勢いよく溢れ、私は思わず目をつぶる。断続的に強く溢れる愛液が収まった頃、伊万里はくたりと私の横に転がった。

 私自身、絶頂には達しなかったけど心は満たされていた。不思議な気分だった。


「しかし何でまた私なんかを買うんだい?」

 服を着ながら私が伊万里に問いかけると、彼女はシャツのボタンを留めながら小さく微笑んだ。

「私、女の人が好きなんです。でもこんなの、他の人に言えないから」

「まぁ、私なら余計な事は言わないからね」

 服を着終えると私はドカッと座り、煙草に火を点けた。

「少し私の話をしてもいいですか?」

「煙草吸い終える間ならいいよ」

 そう言いながら私は深々と煙草を吸う。他人の身の上話なんかちゃんと聞くなんてまっぴらごめんだからだ。

「私、西高校の生徒なんです。その中でも学年上位三人には入り、来年は早稲田に行こうと思っているんです」

「そりゃ立派なお嬢さんだ」

「周りや親からも期待をされていて、私自身も応えるのが楽しくて今までやってきたんですけど、やっぱりストレスがすごくなってきて」

 まるで別世界。私は親から微塵も期待されなかったし、そんなのがあったとしても応えようとしなかっただろう。そんな親を見捨ててここに来たから、親がどうなっているのかもうわからない。

「ストレスは次第に性欲へと結びつき、どうにか発散したかったんです。それでふと、友達が噂しているのを聞いて、自分なりに調べて」

「どうせロクな噂じゃなかったのに、よく来たもんだね。誰でも良かったのかい?」

「そうですね、顔さえ良ければ」

 苦笑し、私は煙草の灰を落とす。本来ならもう消す短さだけど、私はフィルターを貫通する苦さと熱をもう一吸いした。挟む指がチリチリと熱い。

「正直だね。で、ありがたくお眼鏡にかかったと」

「最初は遠目から見てました。色んな男の人と歩いているのを。でも、それでもこの人にならと思って」

「なるほどね」

 私はギリギリまで短くなった煙草を揉み消すと、挟んでいた指に息を吹きかけた。

「あの、また来ても」

「別に私は金さえ払えば気にしないよ」

 そう言いながら私はまた煙草に火を点けた。ふうっと吐き出す煙が部屋を白く染める。

「わかりました。それじゃ、失礼します」

 伊万里はそう言うと一礼し、部屋を出て行った。私は部屋の鍵をかけようと煙草をくわえたまま玄関に近付く。そうして手を伸ばしたところで、すぐさまノックが鳴った。

「誰?」

「あ、今空いてるかな?」

 声の主は酒屋の小間使いだった。少し時間を置きたかったけど、結局イッてないからか股の奥が疼くのを我慢できずにドアを開けた。

「あ、どうもすんませんね。ねぇ、さっきなんか綺麗な女の事すれ違ったんだけど、あの子誰かな? もしかして雪乃さん、女も抱くの?」

 下卑た笑いに私は煙草の煙を強く吹きかけてやった。

「ぐちゃぐちゃと詮索するようなら帰ってもらうよ。帰ってマスでもかくかい?」

「やだなぁ、冗談だよ冗談」

 そういうと小間使いが一万円札を取り出してきた。私はそれを受け取ると、灰皿で煙草を揉み消し、布団に来るよううながした。



 それからも伊万里は週に二度ほどやってきて、私とのセックスに興じた。

 もちろん私は毎回一万円をもらい、一時間身体を好きにさせる。最近は伊万里も上手くなってきた。若さからか、水を吸うスポンジのようにどんどんと知識と経験を吸収し、気付けば私も伊万里とするのが楽しくなりつつあった。

 ただ、十八の伊万里にとってはきっと一万円は大金だろう。最初はお年玉などを溜めていた貯金を切り崩しているのかなとも思った。けれどそれにしては頻度が多い。人の懐事情はあまり気にしないようにしているのだが、まだ学生の伊万里からどうしてこんなにも払いが良いのか不思議だった。


「ねぇ、伊万里。アンタ随分お金持ってるみたいだけど、大丈夫なのかい?」

 女の匂いが充満した室内で情事の終わった私は煙草に火を点けると、まだ布団で息を荒げて横になっている伊万里に声をかけた。伊万里は気怠そうにこちらを向いたが、まだ少し蕩けた瞳をしている。

「大丈夫。ここはそういう詮索は無しなんでしょ」

「……まぁ、そうだね。ただちょっと学生には安くないお金だから、ふと思ったのさ」

 煙草の煙を壁に向かって吐き出すと、伊万里がゆっくりと体を起こしてティッシュで汚れを拭く。最近じゃもうこういうのも慣れたらしく、くしゃくしゃに丸めたティッシュをゴミ箱に捨てると着替え始めた。

「うちはね、裕福なの。だから大学も行けるし、女の私でも勉強させてもらえる。小遣いだってそれなりにはもらってるのよ」

「そうかい。ならいいんだ」

 私は煙草を揉み消し、ようやく服を着る。よれたシャツに色落ちて膝の辺りが擦れているスカート。それがいつもの私の服。しかし伊万里がそんな私をじっと見ていたので、何事かと視線を向ける。

「雪乃さん、美人なんだからもっとオシャレしたらいいのに」

 真顔でそう言う伊万里は純粋なのだろう。私はその悪意とも受け取れる純真に苦笑するしかない。

「三十超えた女がオシャレなんかしたって何もならないよ。生きてくだけで精一杯なのさ。この身体だって、あと何年売れるかわかりゃしないんだから」

「でも、素敵な出会いだって」

 まったくこの世間知らずは……。

「あのね、こんな便所女をどこの物好きが引き取るって言うんだい。この現状を隠したって隠しきれるものでもないし、そんなもんはハナから捨ててるんだよ」

 それでも伊万里は納得しない表情で私を見ている。若く希望に溢れた人間はこれだから嫌だ。自分がどれだけ輝いているのかわかっていないし、斜陽にいる私のような人間がどれだけ惨めなのかもわかっちゃいない。

「ほら、終わったんだからとっとと帰りな」

 私はまた煙草に火を点けると、伊万里に向かって煙を吹きかけた。私からの答えに伊万里は少しむせると、悲しそうな眼をしながら頭を下げて出て行く。ドアの閉まる音がヤニ臭い部屋の中に響く。私はもう一吸いすると、溜息と共に吐き出した。


 最近、伊万里といると妙な気分になる。それは単に性欲だけじゃない。女だからというだけじゃない。


 私を抱きに来る男達とは違い、良い意味で割り切れていない。男達は挿れて出せば満足してお金を置いていく。けれど伊万里はそれだけじゃないような気がする。もっとこう、繋がりを持ちたがっているように見えるのだ。

 私だって若くて可愛い子に懐かれるのは嫌な気がしない。でも、私じゃ駄目なのだ。

 商店街で買い物をしていても、時折向けられる侮蔑の目。聞こえはしないがヒソヒソと悪口や陰口を言ってるのもわかる。目の前で罵倒された事だって数えきれない。銭湯でだって私と距離をおいているのくらいわかっている。


 そんな私と仲良くなるなんて、あってはならないのだから。


 金を払っている以上、私は断らない。金の重さは命の重さなのだから。えり好みなんかできないのはわかっている。そんな歳でもない。だから伊万里だって受け入れた。でも、私に入れ込むのは間違っている。

 以前の私なら、そんな事は気にしなかった。ただどうしてだろうか、同じ女だからなのか、それとも彼女は私と違ってこうだったらいいなという人生を歩んでいるからなのか、柄にも無く老婆心と言うかお節介が生まれてしまう。

 こんな事を考えるようになったら、もう終わりだね……。

 私は幾らも吸ってない煙草の灰が畳にごそっと落ちると、舌打ちして灰皿に揉み消した。



 伊万里と初めて肌を重ねてから半年が経とうとしていた。初夏に出会った私達も、冬の寒さに凍えるようになるまで関係が続くとは思わなかった。

 相変わらず伊万里は週に二度やってくる。毎回、一万円札を欠かさない。

 週に二度、半年続けば単純計算で五十万近い金額だ。さすがに裕福な家だとしても、限度があるだろう。伊万里自身の貯金でどうにかなる金額じゃない。この頃は私もお金を置いてくれる嬉しさよりも、その出所に心配が勝っていた。



「寒いね、今日も」

 十二月のある日、ノックの音で私がドアを開けると。顔を赤くした伊万里が寒そうに立っていた。私はすぐに部屋へ招き入れると、ガンガンに暖房を焚いている部屋に人心地ついたのか頬を緩めた。

「あったかい、この部屋」

「そりゃあ寒かったらヤるどころじゃないからね」

「ふふ、そうかも。幾ら裸で抱き合ったとしても、限度があるよね」

 私は微笑みながら頷くと、じっと伊万里を見詰める。すると金の催促だと思ったのか、バッグから財布を取り出した。

「ねぇ、伊万里。ちょっといいかい?」

 正に財布から一万円札を取ろうとしていた伊万里がその指を止めて私の方を見てきた。

「アンタ、本当にそれ自分のお金なのかい?」

「……雪乃さん、それを詮索するのはよくないんじゃないかなぁ」

 そう言って伊万里が再びお金に指をかける。

「そうかもね。ただね、私は伊万里をちょっと特別だと思ってるんだよ」

「特別?」

 再び伊万里の手が止まる。ずるい言い草だとはわかっているけど、こうでも言わないと聞きはしないだろうからお互い様だ。

「何て言うのかな、他の人と伊万里は違うんだよね。だから嘘や隠し事は無しにいきたいんだよ。わかるかい?」

「……それはまぁ、私もできればそうしたいけど」

 食いついた。私は緩みそうになる頬を堪え、誤魔化すように煙草に火を点けた。

「私だってね、金は欲しい。でも犯罪だとかそういう汚れた金は遠慮こうむる。わかるだろう? 学生が払える金額をもう超えているからさ、どうかなと」

「違う、これはそんなお金じゃない」

 財布ごと床に手をつき、伊万里が私に身を乗り出してきた。その眼に嘘は無さそうだから、すぐに本当の事を言うだろう。

「じゃあどんな金なんだい?」

「これはその……親から塾代や参考書代としてもらったお金を回してるだけ。確かに貯金は無くなった。塾代とか使ってるのは悪いと思ってる。でも、成績は下げていない。なら一緒でしょう、私がどこにお金を使おうが」

 必死になって私を見詰めてくる伊万里。まだ外の寒さが残っているのか、頬が赤い。


 その頬を私は平手で更に赤くした。


 叩かれた伊万里は顔を横に向け、しばらく呆然としていた。どうして叩かれたのかわからないようでもあり、まるで叩かれるだなんて初めてされる行為かのように感情を整理できていないみたいだった。

「なん、で……?」

 小さく声も身体も震えていた。

「そんな大切な親御さんの金をこんな風に使うんじゃないよ」

 似合わない事を言っている自覚はある。野暮で余計な事だとも。それでも、私は言わずにはいられなかった。だって目の前の伊万里はまだ綺麗なのだから。

「でも、お金はお金でしょ。私のためになるならいいじゃないの。私はこうしてストレスを発散し、勉強に打ち込んでいる。成績だってあがっている。何が問題なのよ」

 あぁ、子供の屁理屈だ。世の中を知らないバカなガキが調子に乗っているだけだ。

「だけどね、それは伊万里の金じゃないんだよ。その金はね、伊万里の親が学力と未来のために投資した金なんだよ。私を抱くために払ったもんじゃない」

 すると伊万里はキッと私を睨みつける。

「なによ、お説教? 散々お金もらって身体好きにさせておいて、今更何よ」

 その視線をかわすように私は煙草に火を点けると、足元に煙を落とす。そうして伊万里とゆっくり目を合わせる。何度も見詰め合った伊万里の目、いつだって綺麗だ。だからこそ、まだわかっていないんだ。

「こうなって欲しくないだけだよ、伊万里には」

 私はどかりと座ると、もう一度煙草を吸う。伊万里は立ったまま動かないから、必然的に見下ろされる形になる。でも、それでいい。そうであるべきなんだ。

「私だってね、若い頃はあったんだよ。ただね、その時に何も決められずただ何となくで生きてきて、何も選べないないまま毎日を過ごしていたらこうなったんだ。もうね、何もなれない。出来る事と言えば身体を売って日銭を稼ぐだけ」

 煙草を吸い、吐いた煙が伊万里の足元を漂った。ゆらゆら揺れ、儚く消える。

「でも伊万里は違う。これからのつぼみなんだよ。どんな綺麗な花を咲かせるか、みんな期待している。今だって綺麗だろうが、もっともっとと願われているんだ。そんな期待を込められた金をこんな便所女に使っていい訳なんかどこにもないのさ」

「何言ってるのよ、どうでもいいよそんなの。それに雪乃さんはどんな噂をされていたとしても、素敵な人だってわかってる。だから会いに来てるの」

 ほんっと、青臭い。だからこんなにも柄じゃない事を言ってしまうんだろうな。

「そもそもね、それはアンタが手にしているだけの金であって、アンタが稼いだ金じゃないだろう? ここに来て私を抱く奴は大なり小なり、自分で稼いだ金だよ。手前で稼いでもいないのに女を抱くなんて、どんだけ甘えてるのさ」

「どうでもいいって言ってるでしょ」

「どうでもよくなんかないよ」

 深々と煙草を吸い、ゆっくり大きく吐き出す。私の心の奥底にまだ残っている輝き、煌めきなども一緒に煙に乗せて。そして静かで語り掛ける物言いに、伊万里がいぶかしそうに私を見る。

「どうでもよくなんか、ないんだよ」

 もう一度、今度は伊万里の目を見て。少し涙目の伊万里はでも表情を崩さず、硬いまま。今も綺麗だけど、もっともっと綺麗になれるだろう。伊万里はこんな薄汚れたアパートに来るような女じゃない。もっと似合う場所がある。

「何で、何でそんな言い方するのよ。何でそんな、優しい言い方で」

「だって私、伊万里を気に入っているからさ」

 大きく目を開き、伊万里は口元を手で覆う。私はその様子を見てニヤリと笑い、煙草を吸う。もう根元まで灰になってきていたそれは指を火傷させそうだったけど、ゆっくりと揉み消した。

「でも、それももうおしまい。伊万里がそんな人だってわからなかった私がバカだったよ。もう相手はしない、金を貰ってもね。だからここに来るのはやめな。そして真っ当に好きな人でも見つけなよ」

「何をそんな、勝手な」

 喜びの表情がすぐに憎しみへと変わる。それが面白くて可愛くて口元を歪ませていると、伊万里の癪に触ったみたいだった。

「そもそもね、伊万里は単なる客なんだよ。金を払ってくれるから身体を貸していた。ただそれだけ。金を払わなきゃ、アンタは私を抱けないんだよ」

 怒りで伊万里が震える。私はヘラヘラ笑いながら、舐めるように伊万里を下から覗く。

「ねぇ伊万里、もしかして私に恋でもしてたの? だとしたら随分おめでたいねぇ」

 伊万里の怒りが頂点に達したのか、両頬を涙が濡らす。顔を真っ赤にし、物凄い勢いで睨みつけながら眉間と頬を震わせている。

「アンタなんか死んじゃえ。こんなとこで身体売ってる女なんか、死んじゃえ」

「その通りだよ。だからこうなるんじゃない。真っ当に生きな。そもそも私、アンタだけに抱かれてるわけじゃないからね」

 勢いよく私に背を向けた伊万里はもう何も言わず、玄関へと歩き出す。きっともう、伊万里はここに来ないだろう。数ある金蔓がいなくなるのは痛いけど、仕方ない。これで良かったのだろうから。

「おっと、何だよ」

 伊万里がドアを開けて部屋を出ようとした途端、誰かとぶつかったみたいだった。私は何事かと落ちかけていた視線をそちらに向けると、そこにいたのは酒屋の小間使いだった。

「あらら、何かケンカでもしちゃったのかい?」

 下卑た笑みを浮かべる小間使いのをすり抜けようとした伊万里だったが、すぐに腕をつかまれた。

「ちょっと、何ですか?」

「……アンタもここに来るって事はそういう女なんだろう?」

 よりいやらしく、舌なめずりまでする小間使いに伊万里は腕を振り払おうとする。けれど腕力差からか、振りほどけない。それがますます小間使いの口角を歪める。

「離して」

「そんな顔して出るって事は満足できなかったんだろ? いいよ、俺なら金払わなくていいから一緒に楽しもうぜ。何だったら朝日まで拝んじゃおうか」

「やめて、離して」

 悲鳴にも似た伊万里の声が部屋に響くよりも早く、私は小間使いの肩を掴んでいた。

「おいおい、私を抱きに来たんだろう? 客同士で何かするなんざ困るんだよね」

 けれど小間使いの荒い息と暴走した感情は止まる素振りを見せない。

「うるせぇババア。俺はこっちと話してるんだ、すっこんでろ。手前の家に入ってないのなら、これは自由な恋愛なんだよ。それにコイツは前に見た時から気になってたんだ」

「嫌だ、やめて、助けて。雪乃さん、助けて」

 暴れる伊万里を力づくで抑えつけようとしている小間使い。私は舌打ちすると部屋の奥へと戻る。その姿を見たのか、なおも伊万里が助けを求めるように叫ぶ。

「うるせぇなこのクソアマ。手前のさかった身体を俺が解決してやろうとしてるんじゃねぇか。黙ってついてこいや」

「嫌だ、嫌だ。雪乃さん、助けて。お願い、助けて」

 言い争い、暴れる二人を私はどこか冷静な目で見ていた。そうして小間使いが伊万里を抱え込もうと覆いかぶさった時、私は台所から取ってきた包丁を思い切り小間使いの背中に突き立てた。

 肉を刺す奇妙で嫌な感覚が伝わる。体重を乗せた一撃は小間使いの背を反らせた。

「うぐぁ……こ、の……」

 小間使いがよろめき、伊万里から離れるとそのまま横向きに倒れ込んだ。私は妙に冷静な頭で伊万里を引き寄せる。

「大丈夫かい?」

 伊万里は真っ青な顔をしながらガタガタ震え、私にしがみつく。抱きつく手に力はあまり無く、腰が抜けているのか立てない。

「あ、あぁ……雪乃、さん。どうしよう、どうしよう……」

「いいから早く帰りな。アンタは今日ここには来なかった。いいね」

 無言でうなずく伊万里を更に強く抱きしめる。そうして立たせようとしたところ、背後から物音が聞こえたので思わず振り返ると、小間使いが血まみれの包丁を手に立ち上がっていた。

「この便所女が」

「伊万里、危ない」

 私は包丁を持ってよろめきながら近付いてくる小間使いから遠ざけるよう、伊万里を突き飛ばした。そうしてその凶行から身をかわそうとしたが、それより速く私の腹に包丁が突き立てられる。

「あぅ……う……」

 意識が飛びそうになるほどの激痛と熱が刺された部分を中心に広がる。目の前がぼやけ、私は小間使いともつれるように倒れる。小間使いの方も最初の一撃が効いているのか仰向けに倒れ、荒い息を繰り返している。

 このままだと、伊万里が……。

 私は最後の力を振り絞り、腹に刺さった包丁を引き抜くと覆いかぶさるように小間使いの喉元に包丁を突き立てる。すると小間使いはまるで溺れるような声をあげ、身体を痙攣させた。

「雪乃、さん……あぁ、なんで……」

 声がした方へ首を動かす。もうそれだけしか動けない。そこには尻もちをついて涙を流しながら震えている伊万里がいた。

「頭良いんだろ、伊万里……。言い訳考えて、逃げな……。落し物拾ったでも、何でもいい……とにかく、アンタは私と無関係、なんだから……」

「そんな」

「死ねばいいと言ったじゃないか。その通りになっただけさ……」

 もう目がかすんできた。伊万里の顔も見えない。でも、どんな顔をしているのかわかる。

「言ったけど、でもそんな。救急車、そうだ、救急車呼ぶよ」

「いらないよ……それより……早く、逃げて……。お願いだよ」

 息がもう、できなくなってきた。指先すらもう、動かせない。

「うわああぁ、ごめんなさい、ごめんなさい」

 伊万里が叫びながら、駆け出す音だけが聞こえた。足音が遠ざかっているのか、耳が遠くなってきているのかもうわからない。


 あぁ、私にお似合いの最期だ。笑う元気ももう無いけど、笑えてくる。


 伊万里……綺麗に咲くんだよ……。


 あぁ、もう一本吸いたかったな……。

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